CV.西田健
解説
国内外の情報の収集分析と情報操作を行う「内閣情報庁(内庁)」の戦略影響調査会議代表補佐官。通称ゴーダ。
巨大企業であるポセイドン・インダストリアル(旧大日本技研)の元社員で、第三次核大戦で被曝した日本の復興を支えた放射能粉塵除去技術の確立に貢献し、後に「日本の奇跡」と呼ばれる歴史を「プロデュース」した。その後、防衛局に就職したあと、内閣情報庁にヘッドハンティングされて頭角を現し、代表補佐官に就任した。
名前の読み方は「ひとり」ではなく「かずんど」である。
フルネームの表記が出たのは4話の1回のみである。エンディングのキャスト紹介でもゴーダと記されている。本人曰く、「フルネームを初対面で正しく読んだ人は誰もいないが、一度読み方を説明すれば大抵は(自身の顔とセットで)記憶に残る名前なので気に入っている」とのこと。
元来はのっぺりとした印象の残らない顔に、背広を着た目立たない外見をしており、優秀な理系のエリートにもかかわらず、おちこぼれ組として扱われていた。
そんなある時大事故に遭い死にかけるが、無事に生還する。この際に顔の右側が抉れるほどの後遺症が残るが、整形治療などはせずあえてそのままにしている。また、瞳孔は開きっぱなしで瞬きはほとんどしない。
ゴーダは事故で生死をさまよったことと傷を負ったことで自我(ゴースト)が大きく変容したと語っており、このインパクトの強い顔を気に入っている。
かつては英雄になりたいという願望を抱いており、『日本の奇跡』をプロデュースしたことで社会的地位とそれに見合う名声と権力を得ることを期待していたものの、あくまで「口だけ達者なプロデューサー」に過ぎなかったゴーダに社会は彼の望む評価を下すことはなかった。
この一件からゴーダは、「社会が自分を評価してくれないのは、自分に英雄に必要なカリスマ性が無いからである」と考えるようになる。
そしていつからか、動機なき国民が切望し、しかし声を大にして言えないことを代弁し、実行してくれる英雄(行動者)を創出するプロデューサーになることを目指すようになり、自らの才能と組織の力をフル活用し革命家集団『個別の11人』を「プロデュース」する。
単独国連協調路線を主張する茅葺総理と水面下で政治的対立関係にある親米派の高倉内閣官房長官の下、米帝主導の新日米安保条約を締結するべく、招慰難民問題を土台に「個別の11人」を操って、難民に不満を持つ日本人と迫害される難民の対立を巧みに煽りながら亀裂を広げ、米帝が介入し易い(介入せざるを得ない)状況を作り上げていく。
最終的に難民が長崎の出島地区に篭り独立を宣言、自衛軍の総攻撃と米帝による核攻撃というシナリオにまで発展させた。
なお、内庁は高倉官房長官直下の組織であり、ゴーダの活動も米帝依存路線の維持と茅葺総理の更迭を目論む高倉の目的に沿ってはいたものの、二人は互いにスタンドアローンな関係にあった。
作中で9課はゴーダと高倉の共犯関係を疑っていたが、実際には高倉はゴーダの動向を一切関知しておらず、それどころか彼の存在すら知らなかった。
性格
目的のためならば他人の命をどうとも思わない冷徹なエゴイストであり、人一倍強い英雄願望の持ち主である。
自身にカリスマがないことを自覚してからは先述のように「英雄を自分がプロデュースする」というやり方で自分の力を知らしめようとするようになった。いわゆる天才ではないが、天才に対する憧れや劣等感からエゴの怪物に成り果てた人間であると言える。
その極まったエゴイズムに裏打ちされた行動力と精神力はそのまま実力に結びついており、公安9課の強力な宿敵として立ちはだかった。
彼のキャラクターは映画「アマデウス」に登場するサリエリがモデルになっており、いわば「天才に嫉妬する老獪な俗人」というポジションなのである。
第1シーズンの笑い男ことアオイが「青臭い程に純粋な正義感で動く天才」であった事を鑑みるとある意味対局のキャラクターであると言えよう。
アオイが「権力者達の身勝手なインチキを正したい、不当な犠牲を強いられる人々を助けたい」という利他的で純朴な正義感から行動を起こしたのに対し、ゴーダの根底にあるのは「自分は大衆の気づいていないことに気づいている賢い人間であり、自分こそが第一人者として社会を変革し、評価されるべき選ばれた人間なのだ」という思い上がった傲慢さと自己顕示欲である。
物語終盤にゴーダの核心に気付いたバトーとの会話はそんな彼の本質が浮き彫りになっており、攻殻機動隊の名シーンに挙げられる事も多い。
ちなみに彼の名(迷)台詞「かくいう私も童貞でね」もそのときに言い放った。
ゴーダが童貞であるのも、才能を願う代わりに神に純潔を誓ったサリエリのオマージュであろう。ただし、サリエリは音楽への愛から童貞を貫いたのに対し、ゴーダは自分しか愛せなかったが故に結果として童貞であった、と言った方が正しいが。
ゴーダ本人は「私には孤独に対する強固なまでの耐性があった」と自慢げに語っているが、これも裏を返せば彼は今まで誰からも見向きもされず、相手にもされなかったということである。
ゴーダが自分しか愛せなかったがゆえに誰からも愛されなかったのか、或いは誰からも愛してもらえなかったがゆえに自分で自分を愛するしかなかったのかは不明だが、いずれにせよ、これもまた彼の強烈なコンプレックスの一つであり、「個別の11人」ウイルスにこの因子を仕込んだのは、童貞を動機への潔癖さとして捉え直すことで自らを英雄足りうる人間だと自惚れ、自分にも英雄の資質があるのだと知らしめたい自己顕示欲によるものであることは想像に難くない。
自らを裏方に徹するプロデューサーと自称しながら、その実、自身の存在を誇示したくてしたくてたまらない。それが合田一人という男である。
一応、本人なりに日本の現状を憂いてはおり、『個別の11人事件』を引き起こしたのも難民問題を米帝が有利に介入できる状況を演出することで、米帝主導による新日米安保を締結・安定化させて『米中冷戦下の日本』という構図を作り出し、かつての米ソ冷戦下で代理戦争の恩恵で経済成長を成し遂げた時代の日本、即ち「他国の犠牲の上に成り立つ桃源郷」を再現することによって、閉塞状態になりつつあった日本を再活性化しようと目論んでいたからであった。
そのため、「冷戦構造下の日本」という構図が完成しさえすればよかった節があり、米帝CIAと密通していながらも、茅葺総理が中国側につくことも想定したシナリオまで周到に準備していた。
最終的には一連の事態を「プロデュース」したその能力(統率力・運営力・企画力・実行力)を手土産に自分を米帝に売り込み、より強力な権力の高みへと近づこうと考えていたようである。
能力
国内外の情報収集と分析や自衛軍の活動等において数々の非合法な情報操作を指揮している。また、わざと電脳通信でヒソヒソ話をしている場面を見せたりして相手を煽るなど、話術や心理戦も得意。
その卓越した知略で謀略を巡らし、内庁の膨大な情報力・権力と人員数を駆使して9課の裏をかき続けた。隠密性・情報戦の強さも9課と同等だが、内庁の持つ大量の『数の力』は9課には無い強みであり、9課の弱点である『少数精鋭であるがゆえの組織力の弱さ』を浮き彫りにしている。
個別の11人とは
元々は中国大使館を占拠して、日本政府に難民排除を求めた末に公安9課によって制圧された、9人のテロリスト集団だった。
この事件を基にゴーダは「個別の11人」というウィルスを作成した。
このウィルスはパトリック・シルベストルという革命家によって書かれた本・「初期革命評論集」を自身の電脳に取り込んだ者が感染し、発症した者は、「難民を攻撃することで難民の蜂起を促す」として難民へのテロ活動を行い、最期は自決する。
この顛末は日本人と難民双方の対立を激化させ戦争を引き起こそうと企むゴーダの思惑通りであり、自決という最期も「英雄の最後は死によって締めくくられる」というゴーダの思想からのものである。
ウィルスが発症した者は「初期革命評論集」の中にこの世には存在しない一編「個別の11人」が存在していると思いこみ、「個別の11人」を「聖典」と呼ぶようになる。
感染した者全員が発症するのではなく、「義体化率が高い」(生身の割合が低い)・「義体化以前に童貞」の二つの条件を満たしている者が発症する。
ちなみにゴーダ自身も童貞である。「かくいう私も童貞でね」
なお、発症者のうちクゼ・ヒデオのみ自決せず生き延びている。これはクゼが元々難民を救済するという強い意志を持っており、途中で「個別の11人」という一遍は存在しないことに気付いたからである。
単純な筋書きとしては「『個別の11人』の行動に触発された個別主義者達が、新たに『個別の11人』を名乗って難民へのテロを起こす」と見せかけたもの。
前作の笑い男事件におけるスタンドアローン・コンプレックス現象、すなわち「繋がりを持たない『個』の集団が、実体の無いオリジナルの英雄的行動を模倣する」現象を作為的かつ擬似的に再現したものだと言える(「個別の11人」ウイルスの正体を見抜いたバトーは、これを「エセスタンドアローン・コンプレックス」だと痛罵している)。
余談
シリーズ中の一編「飽食の僕 NIGHT CRUISE」は一話限りのゲストキャラ・ギノを主役として描かれる異色のエピソードであるが、ギノの苦悩や世界に対する憤りなどは自身が英雄になる事を目指していた時期のゴーダの姿を暗示しているようにもとれる(ゴーダが劇中に登場する前のエピソードである)。