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概要編集

明治37年(1804年)、新潟県中蒲原郡沼垂町(現:新潟市中央区)生まれ。

13歳くらいより新潟市で芸界に身を投じ、爾来17年間同じ処で勤め通した人である。

清元長唄は勿論、踊りもすこぶる達者、数ある芸妓達の中にも特に傑出した土地の花形であった。

昭和4年(1929年)に芸道修行のため上京し、日本橋葭町芸者になった。勝太郎と名乗ったのはこのころからとされている。

生まれつきの情趣のある美声は、忽ち江戸っ子の気に入り、葭町の勝太郎と云えば、粋様知らぬ人は無かったという。

その人気からレコード会社からも声がかかり、昭和5年(1930年)にオデオンレコードから葭町勝太郎の名で「佐渡おけさ」「佐渡小唄」でデビュー。その後ビクターと正式契約を結ぶ。

昭和7年(1932年)には「柳の雨」が大ヒット。同年の大みそかに発表された「島の娘」は3ヵ月で35万枚の売り上げを記録する代表作となった。

1933年7月に発売された「東京音頭」は、葭町の先輩にあたる藤本二三吉が歌った「丸の内音頭」の替え歌であったが日本全国で盆踊りの定番となった。

当時まだ年も若く、芸熱心な人で、かつて新潟であった様に、その頃にはお江戸の花形と称される程であったが、昭和8年(1933年)10月に妓席を退き、9年に小唄勝太郎と改め、専ら小唄の道に進んだ。

彼女の人気により鶯芸者歌手が各レコード会社から続々とデビューし人気を博したが、ともにビクターに所属した市丸とはライバル関係でも知られた。


昭和12年(1937年)に中国大陸に戦地慰問に赴いて以来、何度となく戦地慰問に赴いている。このころには新橋で料亭「田川」を経営しており歌手と女将の二足の草鞋を履いていた。

昭和13年(1938年)、戦地で病に倒れた際に軍医の眞野鐐一と知り合い、ふたりは戦後昭和25年(1950年)に結婚した。

しかし眞野は後年「昭和23年(1948年)に勝太郎の家に下宿していた友人を訪ねた際に出会った」とこの逸話を否定している。


戦時中の昭和17年(1942年)発表の「明日はお立ちか」は何度も放送局にリクエストがかかるほどの人気となった。戦地のみならず軍需工場にも慰問に赴いた勝太郎は内地で終戦を迎えた。

昭和21年(1946年)にコロムビアに移籍。「伊豆の七島」、「橘屋」を吹き込むが昭和23年(1948年)にはテイチクに移籍。「大島情話」がヒットした。

昭和25年(1950年)には親善使節として日本の芸能人としては戦後初の渡米。「東京音頭」の歌手として日系人から熱烈な歓迎を受けた。

昭和36年(1961年)に東芝レコードに移籍。端唄・民謡・各地の新しいご当地音頭をレコーディングした。

昭和40年代には懐メロブームで人気となり、東京12チャンネル「なつかしの歌声」の常連出演者だった。

昭和48年(1973年)にタヒチから帰国後身体の不調を訴え、昭和49年(1974年)6月に肺がんにより死去。


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関連タグ編集

鶯芸者 芸者 歌手

市丸

クラユカバ:飲食店のBGMとして「浮名ざんげ」を使用。公開された令和6年(2024年)は生誕120年にあたる。

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