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概要編集

1941年、松竹大船撮影所助監督部に入社する。


戦後、1946年(昭和21年)に復員して松竹大船撮影所に戻り、1947年(昭和22年)助監督として木下惠介監督につく。


1948年(昭和23年)の『破戒』から『日本の悲劇』まで11作品でチーフを務め、木下門下の優等生と呼ばれた。1952年(昭和27年)、中編『息子の青春』を監督し、1953年(昭和28年)木下が脚本を手がけた『まごころ』で正式に監督に昇進。


その後、プロ野球の内幕を暴露した『あなた買います』や、基地の町の退廃を描写した1957年(昭和32年)『黒い河』などが評価される。


1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)の3年間にかけて公開された『人間の條件』は、五味川純平原作の大長編反戦小説『人間の條件』の映画化で、長きに渡る撮影期間と莫大な製作費をつぎ込み、6部作、9時間31分の超大作となった。毎日芸術賞、毎日映画コンクール監督賞、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞を受賞した。


1962年(昭和37年)、滝口康彦の小説『異聞浪人記』を原作にした橋本忍の脚本を得、自身でも「自作の中で最も密度が高い」と豪語した初の時代劇『切腹』でカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞。


続いて小泉八雲の原作『怪談』をオムニバス方式で映画化した初のカラー作品『怪談』は3時間の大作で、2度目のカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受けたほか、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、世界的にと絶賛された。


1965年(昭和40年)松竹を退社して東京映画と契約し、1967年(昭和42年)三船プロ第1作となる『上意討ち 拝領妻始末』を監督して、ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞、キネマ旬報ベスト・ワンとなった。


1968年(昭和43年)の『日本の青春』のあとフリーとなり、1969年(昭和44年)には黒澤明木下惠介市川崑とともに「四騎の会」を結成。


小林は、癌を患っていた又従姉である女優・田中絹代の晩年の面倒を看た。


1996年(平成8年)10月4日、心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で80歳で死去。

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