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ここでは1931年(昭和6年)生まれの8代目市川雷蔵について解説する。「市川雷蔵」と名乗る歌舞伎役者は彼以前にも7人いたのだが、早世する者が多く、現在も名を残しているのは8代目のみである。


出生名は亀崎章雄。後に本名を竹内嘉男、さらに太田吉哉に改名した。


概要編集

1931年8月、京都府京都市にて生を受ける。


1946年11月、歌舞伎役者として芸能界デビューを飾る。この時の芸名は二代目市川莚蔵であった。

伯父に脇役を主にこなした三代目市川九團次(京都市会議員・竹内嘉作の息子)がおり、当初この叔父の養子となっていた(父母の離婚の影響による)。養父は、いかんせん脇役の弟子では限界があったためにこの子に歌舞伎の修行をさせなかったが、(旧制)中学校3年の時に学校を退学して自ら歌舞伎役者となる道を選んでいる。


戦後すぐの関西歌舞伎にも影響を及ぼした演劇評論家の武智鉄二に高く評価され、彼のキャリアアップのためにより大きな名跡を持つ家への養子縁組を斡旋したものの、権門の家ではない(前述の通り、養父・九團次は市会議員の息子であり、歌舞伎界では権門の出では無いとされていた。莚蔵もこの例に洩れなかった)彼を養子にするのに中村雀右衛門家に問い合わせるも権門の出身では無いと嫌がられ、また別の名跡を取り立てようにも周囲からクレームが入るなど苦労する。彼自身も、そんな自身の生まれに悩み、後に歌舞伎界から離れるきっかけとなる。


そんな中で、三代目市川壽海が彼を養子にしたいという意向を示し、武智もこの意向に沿って養子縁組をまとめ上げる。壽海もまた門閥外からの弟子入りであったものの、五代目市川壽美蔵の養子となって出世の糸口を掴み、更には成田屋宗家・市川團十郎の俳名の一つであった「壽海」を名跡として名乗ることを許されていた特別な存在であった。

しかし、壽海と言えども成田屋宗家を継承することを許されたわけではなく、当時事実上当主不在(市川團十郎は長く空位とされ、九代目團十郎娘婿の市川三升が当主となっていたものの、彼はもともと歌舞伎役者ではなく、九代目の高弟たちに名跡に口を挟む力があった)の成田屋では大番頭として二代目市川猿之助(初代猿翁)が睨みを利かせていた。

壽海は莚蔵に宗家にも連なる大きな名跡「市川新蔵」を襲名させたいとの意向を示したが、猿之助は「どこの馬の骨とも知れん奴にその名前はあげられない」と反対を表明。壽海とも度々比較されたるほどの猿之助の反対があっては壽海も無理強いは出来ず、代わって「市川雷蔵」を八代目として襲名することとなり、同時に正式に壽海の養子となった。


1954年に大映に入社、映画俳優に転向した。理由としては、新たな養父・壽海が「若い内から大役につけるのはどうか」と雷蔵に大きな役をあまり振らなかったことで不満があったとか、あるいは当時の興行を仕切っていた松竹の社長と喧嘩をしたとかの説があげられる。他に関西歌舞伎が戦後、衰退と崩壊の方向にあったことも理由と言われる。

一方で終生壽海との義親子の関係は解かれず、1964年には日生劇場で歌舞伎を演じるなど、何れその世界に戻るつもりだったのではないかという説も存在する。

主に時代劇の主人公を演じてきたが、1958年に、三島由紀夫の代表作のひとつ「金閣寺」を原案とした「炎上」で主人公の青年の役に挑戦、高い評価を獲得し、一躍大映のトップスターに上り詰める。


1962年に結婚。その相手は大映のボス・永田雅一の養女だった。その翌年、代表作となった「眠狂四郎」シリーズの1作目が公開された。以後、1969年まで合計12作作られた。

1968年には「映画は長くないかも知れないなあ。お芝居やってみようかなあ」と思い立ち、テアトロ鏑矢という劇団を立ち上げたものの、自身の大病(後述)の影響もあり、一度も公演する事無く自然消滅してしまう。思えば、それがケチのつけ始めだったのだろうか・・・。


1968年6月に直腸を患ってしまい入院。手術のあと8月には退院した。だが、家族には直腸ガンと伝えられ、さらに「半年の間に、再発してしまいます」とまで言われてしまった。

そんな事を知ってか知らずか、映画の撮影に臨んだものの、その2本の映画(そのうちの1本が「眠狂四郎」シリーズのひとつであった)の撮影終了後の1969年2月に再び入院・手術を行う。嫁曰く「あの頃の吉哉さん(雷蔵の本名)はスープも満足にすすれないほど弱っていました」という状況下であったが、復帰に意欲を燃やしていた。だがその夢が叶う事はなかったのだった・・・。


1969年7月17日、直腸から肝臓に転移してしまったガンにより、37歳の若さで、あちらの世界に旅立ってしまった。


その他の代表作としては「陸軍中野学校」シリーズ、「若親分」シリーズなどがあげられる。


遺作は1969年2月に公開された「博徒一代 血祭り不動」というヤクザ映画。この企画を聞いた雷蔵は「私に鶴田浩二みたいな事させてどうするんですか!?(要約)」とマジギレしたという。


実は、この人の人生、特に大映に入社するまでは、かなり複雑にして壮絶であった。こちらも参照。


人間性編集

映画で見せるものとは裏腹に、素顔は全く冴えないもので、メイクを落としメガネ(雷蔵は重度の近眼だった)をかけ背広姿になると。普通の人に紛れてもなかなか気付かれなかったという。メーキャップ恐るべし

台本が完成するまではあれやこれやと注文をつけまくった事から「ゴテ雷」と陰口をたたかれた事があった。さらに、真面目に仕事しない人に対し「お前の顔なんか見たくないわ」と堂々と言い放った事もしばしばあった。

だがその一方で一度納得したら全く文句を言う事無く仕事に集中し、裏方さんに対しては一緒に食事をしたり自宅に招いたりしている。


眠狂四郎の円月殺法に代表される時代劇における雷蔵の殺陣の美しさはとにかく非常に評価が高く、「雷蔵の前に狂四郎なく、雷蔵の後に狂四郎なし」と語られるほどである。

凛とした佇まいと凄み、緊迫感から繰り出される一閃は今や伝説と化しており、勝新太郎から絶賛されていた。


関連項目編集

  • 大映
  • 勝新太郎(ライバルにして実は盟友。さらに歌舞伎関係者上がりや大映入社年でも共通)

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