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支倉常長

はせくらつねなが

支倉常長(1571~1622)とは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。伊達政宗の家臣。

概要編集

別名は六右衛門。また、「常長」は没後に編纂された系図における名で当時は「長経(ながつね)」と名乗ったとも。


出羽国と陸奥国の大名・伊達政宗の家臣。

父は同じく伊達氏家臣である山口常成(なお、山口氏は日本の第50代天皇である桓武天皇の子孫とされる)。武勇においては、文禄の役や大崎葛西一揆の鎮圧に参加した記録があり、養父(伯父)・支倉時正と共に活躍したとされる。


仙台藩成立後、政宗の決定によりヨーロッパとの通商交渉を目的とした遣欧使節団の代表に任命。

宣教師ルイス・ソテロと共にエスパーニャ(現スペイン)を経由してローマに渡った。

一説には、通商交渉は建前で実際はヨーロッパとの軍事同盟により徳川家を覆さんとする政宗の計画があったともいわれている。


時のエスパーニャ国王フェリペ3世、ローマ教皇パウルス5世に謁見し、日本人(延いてはアジア人)としては初めてローマ貴族及びフランシスコ派カトリック教徒となり、ローマ市民権を得て数年の間ヨーロッパに滞在した。


洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ(Don Filippo Francesco)

前述の市民権の証書や肖像画などには姓の「支倉」を古典ラテン語表記で「FAXICVRA」、「伊達政宗」を「IDATE MASAMVNE」と綴られた記録もある。また、紋章については盾の上に支倉氏の家紋である「右万字(反転させた“”)」をあしらったものが使われた。


しかし、本来の目的である通商交渉は成立せず、それどころか1620年に帰国した頃には既に幕府により禁教令が布かれており、それから二年後の1622年、失意のうちに死去した。享年51歳。


常長没後、家督は嫡男・常頼が継いだが、1640年に家臣がキリシタンであったことを幕府から責任を問われ常頼は処刑、支倉氏は断絶する。しかしその後の1668年、常長の孫に当たる常信の代にて許され再興し、現在もその家名は続いている。


当時の日本人としては珍しく、ヨーロッパ人の作家による肖像画・立体像が復数遺されており、持ち帰った油絵に関しては日本人を描いた最古のものとされ、国宝として認定されている。


また、ヨーロッパと交流・在住という当時としては非常に珍しい経験をした人物でもあり、彼を題材にした創作作品も複数存在し、日本史の教科書でも取り上げられる機会は多い。同じく伊達氏の重臣であった片倉景綱(小十郎)や伊達成実にも負けじとも劣らぬ知名度を持つといえるだろう。

ただし、昨今の戦国ブームにおいては如何せんその活躍の時期が江戸時代以降、尚且つ海外での出来事なので、戦国乱世を舞台としたサブカルチャー作品ではなかなか取り立たせてもらえないという不遇な扱いが今尚続いている。


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伊達政宗

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