概要
本名:森安直(もりやす ただし、1934年11月9日~1999年5月19日)
1950年代、主に貸本漫画を執筆したが業界の衰退により1960年頃に廃業。才能を高く評価されながらも過剰に自己中心的な性格が祟り、漫画雑誌などとの信頼関係を築けなかった。
その後は職を転々としつつ、寡作ながら作品を発表。
代表作は定年退職後に自費出版で刊行した「烏城物語」。近年は繊細で叙情に溢れたタッチが再評価されつつある。
略歴
1934年11月9日、岡山市(岡山県)に誕生。
1945年、岡山大空襲で焼け出され、吉備町(現在は岡山市)の祖父の家に身を寄せる。
1947年、新設された関西中学校(1953年に募集停止)に入学。田河水泡の作品を愛読し、漫画を描くようになる。
1950年、岡山県立岡山南高等学校に入学。
1951年、「夕刊岡山」に漫画が掲載されデビュー。「山陽新聞中学生版」に連載を持つ。
1953年、上京し、田河水泡の住み込みの内弟子となる。森安は家事が苦手で半年でやめた。
1954年、日動映画社(後の東映アニメーション)に入社。上司から紹介された寺田ヒロオを訪ね、「新漫画党」結成に参加。欠勤が増え日動映画社をクビになる。「漫画少年」(学童社)に作品が掲載されるようになる。
1955年、学童社が倒産し「漫画少年」は廃刊。他誌に掲載のなかった森安は生活に困窮し、牛乳販売店の住み込みとなる。
1956年、牛乳販売店を解雇され、鈴木伸一の部屋の居候となり、トキワ荘メンバーとなる。以降は貸本漫画を主に手がける。鈴木と折半する約束だった家賃を払わず、鈴木の私物を勝手に売り払うなど身勝手な行動が目立つ。鈴木がトキワ荘を出た後も同じ部屋で暮らすが家賃を滞納。寺田ヒロオは森安に金を貸し出版社に紹介するが、借金は返さず仕事も断ってばかりいた。暮れに家賃を滞納したままトキワ荘を退去し、激怒した寺田は森安を「新漫画党」から除名。実質的な絶縁状とも言える回覧状がメンバーに出された。
1957年、寺田ヒロオがトキワ荘を出たため、再びトキワ荘に通うようになる。
1959年、「週刊少年サンデー」(小学館)、「週刊少年マガジン」(講談社)が創刊され貸本漫画は壊滅状態となり、森安は執筆の機会がなくなる。
1960年、漫画家を廃業しキャバレーに就職。
1961年、田河水泡に仲人を頼み結婚。
1967年、キャバレーを退職。以後、職を転々とする。
1970年、「COM」(虫プロ商事)の競作企画『トキワ荘物語』に参加。
1978年、大阪での単身赴任を終えて東京の家に戻り、妻子に家を出ていくよう求める。以後、別居生活となる。
1981年、『わが青春の「トキワ荘」 現代マンガ家立志伝』(NHK)に出演し、テレビを見た田河水泡から破門される。
1994年、建設会社を定年退職。岡山城築城400周年記念事業への応募を持ちかけられ、「烏城物語」の執筆を開始。
1997年、自費出版で「烏城物語」を刊行。
1999年5月21日、自宅で死んでいるのが発見された。死亡推定日は5月19日。
余談
- 田河水泡の内弟子時代、田河宅には山根赤鬼、山根青鬼、滝田ゆうなどがいた。
- トキワ荘入居前から、空腹になると新漫画党の仲間に食べ物をたかりにきていた。
- 藤子不二雄Ⓐの『まんが道』では、いささか奇妙な暮らし振りのトキワ荘住人として描かれているが、何故か憎めない人物だと漫画家仲間からは思われていた。また、「田園をバックにした牧歌的なまんがを描かせたらその右に出る者はいなかった」と評価されている。