愛称「モリシ」
広島県の大河FCから、静岡県の東海大学第一高校(現:東海大学付属翔洋高校)へ進学し、1991年に、当時JSL2部のヤンマーディーゼルサッカー部に入団。
入団当初からプロ契約し、高卒1年目から出場機会を得て、2年目以降は完全に主力へ定着。
1994年には、Jリーグ入りを目指してセレッソ大阪へと改称したチームを引っ張り、プロ化1年目での昇格を達成。
1995年、チームの中心として50試合に出場、11ゴールを挙げ、Jリーグベストイレブンに選出。
同年、加茂周監督により日本代表に初招集、レギュラーに定着。岡田武史への監督交代後は主にスーパーサブ的な起用をされ、1998年のワールドカップフランス大会日本代表にも選出、1試合に出場。
2000年には主将としてC大阪の快進撃を支えるが初タイトルは逃す。しかし1stステージMVPと2度目のベストイレブン選出。更に、フィリップ・トルシエの監督就任後遠ざかっていた日本代表にも再び選出され、C大阪のチームメイトである西澤明訓と共に日本の攻撃陣を牽引し、2000年のハッサン2世国王杯、アジアカップ、2001年のFIFAコンフェデレーションズカップなどで日本の上位進出に貢献。
2001年、C大阪がJ2に降格。しかし森島は他チームのオファーをけって残留、1年でJ1復帰。
2002年、日韓ワールドカップには、西澤と共にJ2クラブからの代表選出を果たし、グループリーグ第3節・対チュニジア戦で、日本の決勝トーナメント進出を決める決勝点を「自国開催のワールドカップで、自分のホームスタジアム(C大阪の本拠地・長居スタジアム)で得点を挙げる」。
2003年以降は代表からは遠ざかるも、クラブでは引き続き主力として活躍。
2006年、2度目のJ2降格で大量の主力選手が抜けるも残留。しかし、この頃に原因不明の首の痛みを発症、2007年は出場5試合、無得点に終わる。
2008年、首痛は完治せず、試合出場は叶わなかった。10月30日、現役引退を発表。
12月6日、J2最終戦 第45節 vs愛媛FC戦ロスタイムに、香川真司に代わり現役最後の公式戦出場を果たした。
森島はヤンマー/セレッソ大阪一筋の現役生活で、長年背負った背番号8はセレッソを象徴する背番号となり、後に香川真司、清武弘嗣、柿谷曜一朗といったセレッソの中心選手に引き継がれている。
2009年からは、セレッソの「アンバサダー」として、テレビ・ラジオ番組やイベントなどへ頻繁に出演。
2016年から新設チーム統括部部のフットボールオペレーショングループに配属され、チームの編成やスカウティングにも携わる。
2018年12月21日、セレッソ大阪の社長に就任。