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概要編集

阿賀野型軽巡洋艦の3番艦。この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目。艦名の由来は、長野県から岐阜県を経て愛知県に至る矢矧川にちなんで命名された(現在は矢作川と表記されている)。

姉妹艦は、阿賀野能代酒匂

矢矧の名が艦艇に使われるのは本項が2度目であり、以前に筑摩型防護巡洋艦の2番艦にもその名が使われている。この時の同型艦は筑摩平戸


・1941年11月11日、佐世保海軍工廠で起工。1942年10月25日進水。1943年12月29日竣工。


・1944年2月にリンガの哨戒および訓練のためシンガポールへ派遣された。


・阿賀野が撃沈された事に伴い、木村進海軍少将が駆逐艦秋月から移乗。23日、第十戦隊旗艦となった。5月、空母大鳳瑞鶴翔鶴、重巡洋艦妙高羽黒とともにシンガポールからタウィタウィ泊地へ向け出発した。タウィタウィ泊地では、訓練と搭載水上偵察機による潜水艦哨戒任務に従事した。


・同年10月、栗田艦隊(第一遊撃部隊)、第二部隊(司令官鈴木義尾中将・旗艦金剛)に属してレイテ沖海戦に参加。24日のシブヤン海海戦で艦隊はアメリカ海軍第38任務部隊からの空襲を受ける。空襲直前、艦載水上偵察機2機を発進させたが、1号機(佐々木少尉機)が未帰還となった。この戦闘で米軍側の記録にない米潜水艦を発見し、空襲下にある艦隊は混乱した。日本軍は、五度の空襲によって戦艦武蔵が沈み、戦艦大和長門、重巡洋艦利根・妙高・駆逐艦浜風清霜が命中弾を受けた。妙高・浜風・清霜が艦隊から離脱。矢矧は第二次対空戦闘で左舷に至近弾、第三次対空戦闘で後部兵員室に小型爆弾命中、艦首至近弾で錨鎖機室で火災発生という被害を受けた。


その最期編集

矢矧において悲運となったのが、やはり坊ノ岬沖海戦といっても過言ではない。1945年4月7日、零式水上偵察機1機を鹿児島県指宿基地に戻す。12時32分からはじまった米機動部隊の空襲では、開始早々の12時46分、米雷撃機TBF/TBMアベンジャーが発射した魚雷1本が左舷中部に命中し、13時00分にも艦尾に魚雷が命中して機関が停止、航行不能となった。最初に命中したのは右舷後部という見解もある。いずれにせよ矢矧は航行不能となり、このため護衛すべき大和から離れてしまった。矢矧からは10-20km遠方に、左舷に傾斜した大和が見えたという。13時すぎ、矢矧だけの水雷戦隊指揮は不可能と判断。健在艦を率いて沖縄へ突入すべく、米軍機の空襲がやんだ時間を見計らって駆逐艦磯風に接近命令を出した。磯風は矢矧に横付けしたが、ふたたび空襲が始まったため離れた。参謀の進言で短艇を海面に降ろしたが、爆弾の直撃で将兵と共に四散。このため第二水雷戦隊司令部が移乗するには、駆逐艦側が矢矧に横付けするしか方法がなくなった。磯風は何度か接近を試み、速度を落として矢矧に横付けした瞬間を米軍機に襲撃され、至近弾により速力12ノットに低下、やがて航行不能となった。

救援の見込みがなくなった矢矧は米軍機混成部隊に襲われ、最終的に合計魚雷6-7本、爆弾10-12発を被弾。14時5分に沈没した。


戦後編集

矢矧の艦名は、旧日本海軍の後継組織・海上自衛隊が発足してからも長らく復活せず、3代目となるもがみ型護衛艦やはぎ」が世に出たのは2022年6月23日のことで、本艦戦没から実に77年の歳月を要した。この3代目やはぎは5番艦で、同型3番艦は同じ阿賀野型軽巡洋艦由来の「のしろ」だが、こちらはもがみ型以前にもちくご型護衛艦で使用された実績がある。


関連項目編集

大日本帝国海軍 軽巡洋艦

阿賀野型軽巡洋艦

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