矢野顕子
やのあきこ
1955年2月13日生まれ。出生地は東京都で、中学卒業まで青森県で過ごす。現在はアメリカ合衆国ニューヨーク州在住。青山学院高等部中退。
二度の離婚歴があり、最初の夫は矢野誠。二人目の夫は坂本龍一(共に再婚同士)である。矢野誠との間に息子、坂本との間に娘がそれぞれ一人ずつおり、娘は坂本美雨の名前でミュージシャンとして活動している。
出生名は鈴木顕子。デビューの際、既に矢野と結婚していたことからそのまま当時の本名を芸名としていたが、離婚後も「矢野顕子」の名前で認知されていたことから改名せずそのまま使っている。
シンガーソングライター、ピアニストとして知られる。ジャズやポップス、テクノポップまでジャンルは非常に幅広く、独特の歌唱スタイルと高い演奏技術で評価されている。作詞では『ラーメンたべたい』に代表されるように食べ物が登場する機会が多く、山下達郎から「歌詞に最も食べ物が良く出てくる作詞家である」と評価されている。
3歳の頃、医師をしていた父の開業に伴い、青森市に移住。
また、このころから母の勧めで青森明の星短期大学付属の音楽教育研究所(明の星学園はカトリック系の修道会が母体であり、シスターが指導していた)に通い、ピアノのレッスンを受けるようになる。当時の指導は非常に厳しく、カミソリの刃を鍵盤の間に立てて練習させられたことを言及している。しかし矢野本人は即興演奏のほうに才能があり、子供の頃から家ではその時の気分やその日あった出来事を即興でピアノと歌で表現していた。
ピアノのレッスンは小学5年生で終わり、その後は父の影響もあってジャズに関心を持つ。ジャズを独学で練習し始め、将来はジャズピアニストになることを決心する。
ジャズをやりたいという思いから、単身上京し軽音楽部のある青山学院高等部へ進学。祖父母の家から通い始める。
本人によれば、自身の入学した年の3年生はジャズバンドをやっていたが、2年生はロックバンドばかりであったことから3年生に目をかけられていたという。ピアノの腕前を高く評価され、1年生にして部長を務めるようになり、また上級生やOBからの紹介でさまざまな場所で演奏するようになる。
高校2年生のころから、放課後にレストランでの演奏の仕事をするようになる。仕事が多忙になった上、帰宅が深夜になるため昼夜逆転の生活で学業に支障が出ると考えたことから高校を中退。演奏活動に専念するようになる。
この頃、娘を心配した父が知人の安部譲二に頼み、安倍家に居候させていた。
安倍の当時の妻、遠藤櫻子からも可愛がられており、遠藤の経営するジャズクラブ「青山ロブロイ」にも出演していた。活動が評判を呼び、スタジオでの録音に参加したほかピアニストとしてレコードデビューの話もあがったが、肝心の矢野はポップスに傾倒するようになり、また歌の方を評価されることも増えたこともあって、自身で作った曲を歌うようになった。
この頃、当時の恋人らと共にバンド「ザリバ」を結成。1974年、ザリバとして『或る日』でレコードデビュー。作曲は以前から面識のあった筒美京平で、編曲を担当したのが矢野誠であった。
バンドはシングル一枚で解散してしまい、また顕子本人は長男の妊娠を機に矢野誠と結婚する。
1976年、アルバム『JAPANESE GIRL』で、矢野顕子としてデビュー。以降シンガーソングライターとして活動するようになる。
また、自身のアルバムにシンセサイザー・プログラマーとして参加した松武秀樹の縁でYMOとの関わりを深め、サポートメンバーとして演奏に参加するなど共同制作に勤しむようになる。ここで坂本龍一と恋愛関係に至り、1980年には(矢野誠と離婚が成立していない状況で)長女となる美雨を出産している。
1981年、カネボウ化粧品のCMソングに起用されたシングル『春咲小紅』が、オリコンシングルチャート最高5位となるヒット。
また、コピーライターで『春咲小紅』の作詞を手掛けた糸井重里や、忌野清志郎とは坂本とともに親交を深めていた。
1990年、家族でニューヨークに移住。以降はニューヨークを拠点に活動している。
現在もコンサートやアルバムリリースなどで精力的に活動を続けている。また、娘の坂本美雨とのコラボレーションや森山良子とのユニット「やもり」(さらに、ここに両名のモノマネで知られる清水ミチコを加えた三人で親交があるという)、上原ひろみや上妻宏光といったミュージシャンとの共演なども行なっている。
タイアップなど
- 映画『モスラ』(1996年):挿入曲の作曲を担当。映画への楽曲書き下ろしは初めてである。
- スタジオジブリ『ホーホケキョ となりの山田くん』:主題歌を担当。また、藤原先生役で声を担当した。
- 映画『あたしンち』:主題歌を担当
- スタジオジブリ『崖の上のポニョ』:声優として参加