概要
織田信秀・信長父子に仕えた戦国時代の人物である。出自・生没は共に詳細はハッキリしていない。通称は出羽守、諱は広正ともされる。史料において出羽守(政綱)と息子・右衛門太郎(広正)との事績は混同が多い。
一説には桶狭間の戦いにて信長が立てた奇襲作戦に周囲が反対する中で唯一賛成し、政綱の助言もあって戦に勝利できたと言われるが、戦において下手に誰かと計略を相談すると情報が漏れる可能性が高まるため、信長がそれを考慮しないとは考え難く、後世の創作と思われ史料にもそうした記述は無い。
しかし、今川義元に一番槍を付けた服部一忠(小平太)や首を挙げた毛利良勝(新介)に増して論功行賞を受けた事から、恐らくは信長の命によって桶狭間に陣取る今川義元の軍勢がどこまで進軍しているか、本陣の位置はどこかなどの情報を、信長に随時報告していた人物ではと解釈されている。
そうした事実が判定できる史料は、今の所発見されていないが、彼がこの戦で最も大きな手柄を立てて第一等の褒美を得ているのは確かなことである。史実としてハッキリしている事は、
- 簗田某という人物が存在した事。(弥次右衛門、出羽守、左衛門太郎と幾人か確認できる。実は政綱という諱も江戸時代以降の資料『三河後風土記』にしか見えない)
- 桶狭間での戦功で沓掛に知行を与えられた事。(3,000貫という家中第一の恩賞を受けた)
- 信秀や信長に仕え、たびたび戦場に赴いていた事。
というレベルである。故に情報で手柄を立てた人物と云う事で、山岡荘八の『徳川家康』『織田信長』や新田次郎の『武田信玄』のように密偵とされたり忍びとされたりはたまた作戦参謀とされたりと中々に想像力を掻き立てられる人物である。
特に、桶狭間の戦いでどの様な功績があって第一功とされたかが不明である点について史料の発掘が待たれる。
政綱には息子・孫・曾孫がいた事が分かっている。
- 子・簗田広正…通称は右衛門太郎、諱は広正または正次。信長から戸次姓(大友家臣立花道雪の本姓と同じ)を授かり戸次(別喜)右近ともいった。一時期加賀国主を務めたが信長に召還された。1579年没。
- 孫・簗田長教…1582年の甲州征伐において南信濃で戦死。
- 曾孫・簗田教貞…父や信長の死後、信長の次男織田信雄に仕えた。
余談だがpixivでは梁田政綱で投稿されるされる作品が多い。