紫姑
ずーくー
厠神(トイレの神様)にして託宣の女神。
姓は何、名(いみな)は媚、字(あざな)は麗娘。
劉敬叔『異苑』によると、子胥という人の妾であったが、彼の正妻である曹姑から嫉妬され、常に穢い仕事を押し付けられてしまい、正月十五日に憤死した。世間の人々はこの日に彼女を象った人形を用意し、夜に厠間(トイレ)か猪欄(猪は豚、欄は柵で家畜を囲ったスペースを意味する)に持っていき「子胥はいないし、曹も実家に帰ってる、小姑さんや出てきて遊んでおくれ」の祝文を唱えて彼女の霊を喚ぶという。
祝文を唱えた後に人形が重く感じたら降神が成功した合図。酒や果実をお供えすると人形の顔は輝くように生き生きとし、飛び跳ねまくるようになる。
多くの事柄を占い、養蚕についての未来を託宣する。また、この神は弓矢の名手である。
機嫌が良ければ大いに踊るが、悪くなれば仰向けに寝たようになってしまう。
平昌の孟という人は信じてはいなかったが試しに人形を作って降神してみると自ら動き出し、跳躍して屋根を貫通して行方知れずとなった。
中国における自動書記タイプの占い「扶箕(fuji、フーチー)」の源流ともみられている。清朝末期には「扶乩(音は同じくfuji、フーチー)」とも呼ばれるようになった。
「箕」は穀物の籾殻を除去する農機具で、笊(ザル)などの日用品と組み合わせて紫姑の依代となる像が作られた。こうした日用品がそのまま依代として扱われる事もあった。「乩」は占いや神懸かり、神降ろしを意味する。
西王母の使者たる霊鳥の名をとって「扶鸞(フールァン、fuluan)」とも称し、木筆の事を「鸞筆」とも呼ぶ。
鸞が砂地に嘴で字を書き神意を伝えるのを孔子が目撃したという伝承もある((臺灣扶鸞文化特展))。
宋代には「乩筆」「柳乩」と呼ばれる木製の筆が用いられ、その筆を通して神が神意を文字として書き記す(「降筆」)という体裁をとるようになる。
民間信仰に属するものだったが、やがて道教に取り込まれ、その過程で関帝や呂洞賓等のよりスタンダードな神明、神仙へのアプローチが試みられる事が多くなっていった。
占いや失せ物探しに使われる一方、継続的に用いられる宗教書や教典を作成する際にも扶箕の技法が用いられている。
心理学者ユングに影響を与えた『太乙金華宗旨』も扶乩を介して記された道書であり説き手は呂洞賓とされている。
乩筆は別名の通り、柳を材木とするが、桃の木で出来た物や両者を組み合わせた物もある。デザインとして鸞があしらわれる事もあれば(宜蘭引進傳全台 鸞堂展揭扶鸞文化神秘面紗)、他の霊獣である事もある(宜蘭碧霞宮鸞筆赴德參展)。
形状やY字もしくはT字の形をしており、儀礼に参与する信徒のうち二人が別れた取っ手を一本ずつ持ち、砂に文字が記される形である。
明代末期から清代にかけて宗教色を強め、託宣に基づいた宗教団体(扶鸞結社)の設立や運営が為され、儀礼を経て成立した宗教書「鸞書」の頒布や慈善活動も盛んに行われるようになった。