この事件は、秋田県北秋田郡花岡町( 現在大館市 )の花岡鉱山( 亜鉛や鉛の鉱山、1885年より1996年まで操業、跡地は廃棄物処理場となっている )にて、勤務していた中国人労働者が待遇に不満を持ち一斉蜂起、その際日本人などを殺害し、後に鎮圧されたというものである。
事件の背景
この事件が発生する以前の昭和17年、国民動員計画において中国人の導入を決定、彼らは華人労務者と呼ばれ、「契約期間は2年」「賃金を払う」「送金は自由」「故国への持ち帰り金も特別制限は加えない」などの条件で移入がみとめられ、翌年より試験移入、本格的な移入は昭和19年より行われた。これは基本的に自由契約であったが、中には日中戦争における捕虜、あるいは強制連行にあった人々なども当てられたとされ、明らかに能力にばらつきがありそれほど上質な労働者ではなかったという意見も存在し、そのため労務者に対する指導員がおかれた( この指導員は中国人である場合と日本人である場合が存在する )。
また、待遇面に関しては「衣食住及び賃金、家族送金、持ち帰り金等の給与待遇等についても万全を期するごとく考慮せり」とされていたが、これは現場では守られなかった可能性が高く、栃木県の足尾銅山においては劣悪な環境もあり3ヶ月で60%の人員が衰弱死した、という話が伝わっている( ソースが微妙なため詳細希望 )。
花岡鉱山も彼らを受け入れ、花岡川の改修工事、鉱滓堆積ダム工事の掘削や盛土作業などの業務に従事させた。移送の時点で劣悪な環境にあったのか、彼らに渡されるべき賃金や物資等の横流しなどがあったか、彼らに労働力として問題があり待遇等が抑えられたのかなどの詳細は不明であるが、昭和19年7月以降中国人986人中、昭和20年6月には137人が死亡した。
蜂起および鎮圧
そして昭和20年6月30日、800人以上の中国人が鉱山の寮にて蜂起、この際日本人の補導員4名、また彼らと結託していたか主となり悪事を働いていたと思われる中国人が殺害されている。
統率が取れなくなった労働者たちは逃亡したものの、警察や憲兵、自警団などにより鎮圧された。鎮圧後数十名が拷問や放置などで死亡したと推測される。
その後
その後もなんら変化はなく彼らは労働に従事したと推測されるが、状況はまったく変わらなかったと思われ、むしろ死者数が増加している節がある。結果として彼らが日本に渡った後昭和21年に中国大陸に帰還するまでに419名がなくなった、といわれている。
その後強制連行および強制労働、人権の抑圧に関して損害賠償訴訟が発生したが、これは和解となったが、その後の資金の流れが不透明だったり、原告の意に反して和解したことに疑問が存在する。