概要
幼少期は病弱で喘息等で苦しんでいた事もあり、小学校の時から拳一つで強さを証明するボクシングの世界チャンピオンを夢見るようになった。
中学生の時からボクシングジムに通い始め高校2年生時にインターハイ・ライトフライ級で優勝。
3年の春に東京でボクシングジム巡りをし、協栄ボクシングジムでスパーリングの相手をしたプロ選手を倒したのを見てトレーナーの古口哲(のち独立し、現古口・協栄ボクシングジム会長)がジムにスカウトする。
高校在学中にプロテスト合格。一旦九州に戻り卒業式を終え18歳の誕生日に上京。
1988年4月18日、1R 1分53秒 KO勝ちでプロデビュー。以後3試合連続1R KO勝ち。
1989年2月27日、2R KO勝ちで全日本新人王決定戦 新人王獲得(技能賞)。
1990年5月22日、東洋チャンピオンと敵地で戦い7R TKO勝ちで世界ランク入り。
同年10月15日、日本スーパーフライ(当時はジュニア・バンタム)級王者・中島俊一に挑み、10R TKO勝ち。王座獲得に成功。(3度防衛)。
1992年4月10日、WBA世界スーパーフライ級の王座決定戦で僅差な勝利で王座獲得。試合は明らかに鬼塚が劣勢で、試合後も笑顔がなかっただけに判定後相手選手が泣き崩れる事態が起きた。
以後5度目の防衛戦に成功(うち1KO)。
1994年9月18日、6度目の防衛戦では1位の李炯哲と指名試合。き9R2分55秒、挑戦者の連打を浴びレフェリーストップで初黒星。
翌日、網膜剥離が発覚、引退する。
以後絵画に没頭しつつ1999年に福岡市にボクシングジム「スパンキーK・セークリット・ボクシングホール」を開設。
関連人物
片岡鶴太郎・・・プロテスト前から意気投合していた縁でマネージャーに就いた。
畑山隆則・・・片岡がマネージャーに就いたボクサー繋がり。世界王者として二階級制覇。
辰𠮷𠀋一郎・・・同時期にWBC世界バンタム級王者に就いたプロボクサー。