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鵜殿長照

うどのながてる

鵜殿長照とは、中部地方の戦国武将。三河国の国衆で、縁戚関係のあった今川氏に従っていたが、桶狭間の戦いの後今川氏から独立した松平氏と対立して討たれた。(生年不明-1562年)

概要編集

三河国宝飯郡蒲郡を本拠とする国人の一人。その祖が平安末期の紀伊熊野別当・湛増の子にまで遡れる鵜殿氏は、祖父である長将の頃に上之郷家と下之郷家に分立しており、長照はそのうち上之郷家を継いだ鵜殿長持の嫡男として生まれ、弘治2年(1556年)には亡くなった父の跡を継いで上ノ郷城城代となる。

当時、駿河・遠江・そして三河を治めていた今川氏とは、祖父の代から既に臣従関係にあり、長照も母親が今川氏親の娘であること、そしてその本領が三河の東西を繋ぐ要衝でもあったことから、今川義元の甥として重用される立場にあったと見られる。


永禄3年(1560年)までに尾張大高城城代に命じられ、同年5月より始まった義元の尾張侵攻に際しても同城に籠もっていたが、対織田氏の最前線軍事拠点である大高城は長期に渡って織田軍の兵糧攻めを受け困窮を極めていた。そのような中にあっても、長照は城兵を鼓舞し草木の実や根を分け与えて飢えを凌ぎ、義元が援軍として派遣した松平元康が兵糧を運び終えるまで持ちこたえた。

これにより窮地を脱した長照は、その後の大高城の守備を元康に任せているが、それからまもなく義元が桶狭間にて織田信長に討たれるという思わぬ事態が発生する(桶狭間の戦い)。大高城守備の任を解かれた後の長照がどのような動きを取っていたかは定かではないが、恐らくは生き残った他の諸将と同様に尾張から退き、本領の上之郷へと戻ったものと考えられている。


桶狭間での敗戦で、三河における今川氏の勢力が弱体化すると、国内では今川氏から独立しようとする国人たちの動きが相次ぎ、中でも織田氏と結んで反今川の旗幟を鮮明に打ち出した、松平家康(元康より改名)の台頭は長照にとっても脅威と言えるものであった。

長照自身は縁戚関係を重んじ、引き続き今川家の家臣としての立場を維持しつつ、同じ宝飯郡の領主の一人である松平清善(竹谷松平家当主、長照の異父兄弟とする説もあり)と度々干戈を交えるも、その「不行儀」ゆえに求心力はお世辞にも高い方ではなく、下之郷家の鵜殿長龍を始め一門や家臣から多くの離反者を出す始末であったとされる。

松平氏との戦いも、永禄4年(1561年)の竹谷城への夜襲が不首尾に終わったのを含めて芳しい結果を出せぬまま、翌永禄5年(1562年)には清善の主筋である家康の攻撃に遭い、これを相手に善戦したものの甲賀衆の火計により上之郷城は落城。長照も落ち延びようとした途上で家康家臣・伴与七郎により討ち取られた。その最期の地として伝わる、安楽寺(現・愛知県蒲郡市清田町)横の坂は現在でも「鵜殿坂」と呼ばれており、ここで転んだ者は病気で死んでしまうなどといった伝承が残されている。


上之郷城落城の折、長照の子である氏長と氏次は松平方に捕縛されており、戦後家康は彼らの身柄と引き換えに、桶狭間の戦い以降も人質として留め置かれていた自身のたちとの交換を今川氏真へと要求。氏真も「親族」である氏長たちを捨て置くことは出来ず、人質交換を承諾し両名の身柄は駿府へと送られた。後に今川氏が没落すると、氏長は家康に仕えて長命を保ち、その子孫も江戸期の半ばまで旗本として存続した。

またこれ以外にも、早期に松平氏に転属した鵜殿長祐(柏原鵜殿家当主、長照の従弟に当たる)の系統が、後に鳥取藩池田家に仕え、こちらは幕末に至るまで家老として重きをなした。その著名な子孫の一人に、明治から昭和にかけて活躍した詩人・作詞家の三木露風などがいる。


関連タグ編集

戦国時代 戦国武将 中部勢

今川義元 徳川家康 桶狭間の戦い


野間口徹:2023年放送のNHK大河ドラマどうする家康』での長照役

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