概要
第10SS装甲師団フルンツベルグと同時に連合国のフランス侵攻迎撃の為に、フランスのノルマンディー区に、兵員の大半をドイツ本国の帝国労働奉仕団のハンガリー系ドイツ人の若者を強制徴兵して編成され、第10SS装甲師団と第2SS装甲軍団を構成した。
しかし、情勢の悪化から第2SS装甲軍団は1944年3月に東部戦線に投入され、第1装甲軍の包囲網から脱出を支援するなど行い、6月6日の連合軍のフランス上陸を受け、本来の目的を遂行すべく西部戦線へと移動になりノルマンディー戦を大損害を出しながらも戦い抜き、9月にはオランダのアルンヘムに移動し、二割ほどに低下した戦力回復に努めた。
9月17日のマーケット・ガーデン作戦においては第10SS装甲師団に重装備を渡し、ドイツ本国で再編成の予定であった為に保有戦車は3両に過ぎず、残された機械化部隊の第9SS装甲偵察大隊もアーヘンでの戦闘で壊滅状態になるなど苦戦したもの、戦域での数少ないドイツ軍機械化部隊であり、増援を得た事もあって連合軍を阻止した。
12月16日からのベルギーのアルデンヌでの西部戦線最後の攻勢バルジの戦いでは第6SS装甲軍に属して第2SS装甲師団と第2SS装甲軍団を構成して戦い、東部戦線に転戦しての1945年3月6日からのハンガリーでの春の目覚め作戦でも第2SS装甲師団と第2SS装甲軍団を編成し攻勢を行うも泥濘とソ連軍の抵抗で進撃は捗らず、更に後方で始まったソ連軍の攻勢に背後を遮断される恐れからなし崩し的なオーストリアへの全面的撤退となり、5月8日、師団はオーストリアのシュタイアーでアメリカ軍に降伏した。
名称の由来は、神聖ローマ帝国の王朝の一つホーエンシュタウフェン朝、特に第6回十字軍を率いて聖地エルサレムを獲得したフリードリヒ2世(1194~1250年)から名付けられた。