概要
第9SS装甲師団ホーエンシュタウフェンと同時期に編成され、序盤は同師団と第2SS装甲軍団を構成し行動を共にした。
1943年3月、予想される連合国軍の侵攻に対応するための予備兵力として設立された。
しかし、東部戦線で第1装甲軍が包囲される事態が発生し、初陣をフランスではなく1944年4月のウクライナにて第1装甲軍救出作戦で第9SS装甲師団と共に飾った。
6月6日に連合軍のノルマンディー侵攻作戦が行われ、第2SS装甲軍団は当初の目的を果たす為に急遽フランスへの転進が決まり、15日にノルマンディーに到着して以後奮戦するも、8月にファレーズ包囲網から脱出してフランスを離れるまでには大損害を被っていた。
フランスよりの敗退後は第9SS装甲師団と共にオランダに後退し戦力回復に努めるが、その折に未配備だったパンター戦車が師団に配属される事となり、本国で再編成を受ける第9SS装甲師団と袂を分かってオランダに残る事となったが、この折に将兵は第9SS装甲師団は前師団長が所属する第2SS装甲軍団司令官ヴィルヘルム・ビットリッヒ中将なので、贔屓されていると妬んだという。
そしてパンターを受け取れないまま9月17日の英米連合軍のマーケット・ガーデン作戦の攻勢を受けて第9SS装甲師団と共に奮戦する事となる。
その後はSS装甲軍団に組み込まれる事無く、目立たない過酷な戦場をドイツ降伏まで西部・東部戦線共に味あわされる事となり、1945年4月28日にはソ連軍に対する無謀な反撃命令を拒否した師団長ハインツ・ハルメル少将がA軍集団司令官フェルディナント・シェルナー元帥に解任される事態も起きた程であった。5月、包囲網を突破して辿り着いたチェコスロヴァキアのテプリツェなどで師団将兵は連合軍に降伏した。
師団名は、15世紀ドイツ人の英雄ゲオルク・フォン・フルンツベルク(ランツクネヒトの父)に由来。
余談
ノーベル賞受賞作家のギュンター・グラスは、当師団に1945年2月(当時17歳)の大戦末期に配属され、同年4月20日に負傷するまで戦車の砲手(装填手)として務めていた。
(1999年にノーベル文学賞受賞、受賞理由は「遊戯と風刺に満ちた寓話的な作品によって、歴史の忘れられた側面を描き出した」からである。)
78歳を迎えた2006年8月、自伝的作品『玉ねぎの皮をむきながら』において、WW2の敗色濃い1944年11月、満17歳でもって志願の許される武装親衛隊(陸軍・海軍・空軍は義務兵役年齢に達していないと入隊できない)に入隊(当時17歳)、基礎訓練の終了を待って、1945年2月ドイツ国境に迫るソ連軍を迎撃する第10SS装甲師団に配属され(当時17歳)、同年4月20日に負傷するまで、戦車の砲手(装填手)として務めた過去を数ページに亘り記述した。
同月11日付け日刊紙フランクフルター・アルゲマイネのインタビューで、この記述を事実と言明した。
この言明はドイツ国内に大きな波紋を呼び、国際的に広く報道された。大手ニュース週刊誌デア・シュピーゲルも同15日付で、米軍文書からその事実を確認したと報道している。
歴代師団長
ミヒャエル・リッペルトSS大佐 | 1943年 2月1日~2月15日 |
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ロタール・デベスSS少将 | 1943年 2月15日~11月15日 |
カール・フォン・フィッシャー=トロイエンフェルトSS中将 | 1943年 11月15日~1944年4月27日 |
ハインツ・ハルメルSS少将 | 1944年 4月27日~1945年4月28日 |
フランツ・ローステルSS中佐 | 1945年 4月28日~1945年5月8日 |