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概要編集

第二次世界大戦頃の日韓併合時代、日本企業によって軍艦島をはじめとした鉱山等で労働させられたとされる労働者の事を主に指す。

また、それによる日本企業との訴訟を「徴用工問題」とも言う。


一般の一部において、「徴用工」とされる者達は「第二次世界大戦中に日本へ連行され工場炭鉱等で無給の強制労働をさせられた朝鮮半島の出身者達」という認識が強い。

だが、実は「徴用工」とされる者達の全員が強制労働をされていた訳では無く、「徴用工」とされる者達の大半は、正確に言えば会社等からの応募に応じる形で自主的に働いていた「募集工」で、しかも「無給」どころか日本人よりも高額の「有給」で働いている身だけでなく、徴用満期慰労金までも支払ってもらっており、実際に彼等が働いていた証拠として、当時に手渡されていた給料袋も発見されている。

ただし、1942年からは朝鮮総督府が直接介入して朝鮮人を動員する「官斡旋工」が並行される様になり、第二次世界大戦の末期となる1944年から1945年の1年間に関しては、日本が追い込まれていた事で本当に「徴用」されていたのも事実である。しかし、朝鮮人「だけ」が徴用されていた訳では無く、中国人や日本人の徴用工もいる(むしろ、地元の日本人で徴用された者の方が遥かに多い)のだが、韓国側はあくまでも「自分達(朝鮮人)だけ」が徴用されたかの様に主張している。


日本政府は、募集工や官斡旋工、同様の労働を行っていた中国人や日本人の存在を完全に無視した「徴用工」という表現を否定し、2118年以降より「旧朝鮮半島出身労働者」という表現を使っており、これは徴用工問題に関してしつこく擦り続けて国民の反日感情を煽ろうとしている韓国への警告を示しているともされている。


徴用工に関する歴史編集

募集工と徴用工編集

「徴用工」に関する事の始まりは、第二次世界大戦以前となる。

1900年代に突入した当時の朝鮮は、財政が壊滅状態となっているだけでなく、不正や汚職が当たり前のように行われる等、支配階級であった李朝の腐敗が蔓延しており、隷属階級であった人民の多くは人権が無視されているに等しい状態であった。そんな中、日露戦争を機に、財源の枯渇しきっていた朝鮮は日本の保護国となる形で統治下に置かれる事になり、1905年11月に初代・統監として赴任した伊藤博文により日本から3000万円(当時の1円は1080円の価値があるとされ、現代の額と計算すれば324億円にも昇る)もの法外な巨額を引き出され、朝鮮の道路整備や鉄道整備、土地調査、教育機関創設、病院・工場建設、その他の土木工事といったインフラ整備の為に投資されている。これにより、朝鮮は教育や医療、工業、農業等が大幅に改革され、戸籍制度の確立も行われた事で急速に近代化していき、1908年には3100万円(約335億円)という更なる投資までも行っている。一方、当時の朝鮮は歳入が約700万程度であったのに対し歳出は3000万以上という明らかに財政面のバランスが狂った状態となっており、また朝鮮では儒教に基づいた身分制度が敷かれていた上に、水車もまともに造れなかった技術力の低さから、国民達が自力で国家体制に改革をもたらすのは不可能に等しかった。つまりは朝鮮における財政面の負担を日本が破格の額を持って補い、それによって朝鮮は経済大国としての基盤が築かれていたのである。

この事実は、韓国の伽耶大学客員教授のチェ・ギホ教授によって2012年4月にて実際に主張されており、韓国側の「日本帝国によって民族産業を破壊された」という思想を真っ向から否定し、むしろ李朝によって民族産業が破壊されたと断言している。


日本の統治によってようやく人並みの生活を送れるようになった事実から、朝鮮の国民達の多くはむしろ日本を積極的に受け入れており、その後の戦時中にて日本より工場や炭鉱における労働者の募集が行われた際も、数十万から数百万に昇るとされている朝鮮人達が、出稼ぎ目的で徴用を自らの意思で受け入れていた。これが所謂「募集工」であり、しかも選抜に関しては割と厳しかったらしく、不採用となり残念に思っていた者も少なくなかったとされている。

だが、1942年の時期になると募集工だけでは動員数が足りなかった事から、朝鮮総督府が直接介入により「官斡旋工」とされる者達が動員され、戦争が終盤になって日本の敗戦が濃厚となってからは日本も形振り構わずにはいられなくなった為、「国民徴用令」が発布される事態となり、この時に強制的に日本の労働者として徴用される事になったのが「徴用工」とされる者達だが、募集工や官斡旋工に比べると動員数はかなり少なかったとされている(しかも、募集工や官斡旋工と同じく給料も払われていた模様)。更に言えば、徴用されたのは朝鮮人だけでなく、中国人や日本人もいたとされている。

この為、「戦時中における日本で労働した朝鮮人」には、「募集工」と「官斡旋工」、「徴用工」の三種類がいたのであるが、「僅かとは言え強制的に労働させられた朝鮮人がいた」というのは一応の事実であり、これが後々に厄介な問題へと発展していく事になってしまう。


日韓基本条約の締結とその後編集

戦後にて、朝鮮が北朝鮮と南朝鮮に分かれ、アメリカ合衆国へ実質的に鞍替えする形で「大韓民国」となった南朝鮮だが、自分達が連合国の属国(つまりは戦勝国)であると称する韓国は、敗戦国となった日本に対し賠償請求をする事態となった。

しかし、当時の韓国はあくまでも日本「統治下」にあっただけで、侵略云々以前に戦争すらしていない状態であった為、そもそも日本側が韓国側からの訴訟を受けて謝罪やら賠償金の支払いやらしなければならない関係性などは成立するものでは無かった。この事実を日本だけでなくアメリカからも厳しく指摘される韓国であったが、引き下がろうとしない韓国は、戦時中に自国民達が日本で強制労働させられた徴用工に関する問題や従軍慰安婦問題に関して一部を「改竄」した上で持ち出し、尚も日本を追求する。

更には、1952年にて当時の大統領である李承晩が国際法を無視する形で勝手に「李承晩ライン」を設定し「竹島」を不法占拠するばかりか、それから13年間もの間に周辺の海域にいた日本の漁船を無差別に拿捕(しかもライン内だけでなくライン外にいた漁船まで拿捕された)して4000人近くもの乗員が拘留され、44人もの死傷者が出るまでに非人道的な扱いを受ける事態となった結果、アメリカが仲介する形で日本は問題解決の為、1965年に「日韓基本条約」を結ぶ事になった。

日韓基本条約の主な内容は、「請求権の放棄」、「国交正常化」、「経済援助」の三つであり、これによって日本は約8億ドルを韓国へと出資(3億ドルが無償資金で、2億ドルが低利子借款、残り3億はその他諸々)。当時まだ発展途上国であった韓国の総資産は3.5億ドル程度で、その2倍以上の破格な額の支払いが行われた結果、本来ならこの条約の締結によって、徴用工や慰安婦に関する問題も、最終的かつ完全に解決となるはずであった。


だが、この時に日本は韓国との問題解決を求めるあまり、大きなミスを犯してしまう事になった。

当初、日本政府側は直接徴用工達に個別で賠償金を支払おうとしたのだが、韓国政府はあれこれと理由を付ける形で自分達が元・徴用工達への支払いをするから一旦自分達に一括支払いするよう主張。それを信じてしまった日本政府側は8億ドルの全額を韓国政府に引き渡してしまう。この結果、韓国政府は徴用工と認定された22万6千人の韓国人に対して僅か30万ウォン(日本円で3万円)程度という雀の涙程の賠償金しか支払わず、残りの全ては韓国政府が横取りしてしまう事となり、実質的に日本政府との約束を反故にしている(8億ドルの中には、北朝鮮にも支払う分が含まれていたが、これも韓国政府が全て横取りしている)。

その後、元・徴用工に支払われた賠償金を除く8億ドルの大半は、韓国のインフラ設備や企業拡大、一部政府官僚の政治資金の為に使用される事になる。それによって外資企業の呼び込みにも成功し、韓国は経済大国として更なる発展を遂げる事になり、自国の独力による成果であると信じて疑わない韓国市民からは「漢江の奇跡」と称され、全てにおいて間違っているとまでは言えないのかもしれないが、経済発展の資金源が日本政府による戦時中の賠償金であった事実を知る韓国国民は殆どいない。無論、元・徴用工の全員が政府の思惑に気付いていなかった訳では無かったのだが、当時の韓国はまだ民主化には至っていないが為に国民の権利は少なく、結局の所は不満があっても押し黙るしか無かったと言える。


徴用工問題の暴走編集

1987年にて韓国は民主化を果たす事になったのだが、この頃より賠償金に関する真実はおろか日韓基本条約の存在自体を知らない元・徴用工や遺族達の中から日本政府に対し不満を抱く者達が出始め、それに対し真実を知る韓国政府は賠償金に関する真実を公表しないばかりか、日本に対する元・徴用工達の反日感情を「煽る」という暴挙に出る。

この結果、元・徴用工達は1997年に入った時期に「以前に国家間の賠償が行われても個人への賠償は行われていない」という名目で日本政府と新日本製鉄(旧新日本製鉄、のち新日鉄住金)に対し徴用工問題に関する訴訟を大阪地方裁判所で起こす。だが、当然ながら日韓基本条約を無視したこの訴訟が聞き入れられるはずもなく、大阪の地方裁判所・高等裁判所を経て2003年に「日韓請求権協定によって請求権は消滅。日本政府は既に韓国政府へ支払いを行っているので、韓国政府へ請求するのが妥当である」と棄却された。

その後の元・徴用工達の訴訟も次々と退けられていったが、それでもしつこく食い下がる韓国側は、「日韓基本条約があくまでも徴用工問題の事しか含まれていない」と言い出して、慰安婦問題を始めとする徴用工問題とは別の問題までも蒸し返す事で日韓基本条約における賠償が不十分な物であると主張。それを理由に韓国政府でも与野党議員27人が「1965年の日韓基本条約が屈辱的である」として条約そのものの破棄まで言い出し、新しい条約の再締結案が提出される事態となる。だが、それを逆手に取った日本側によって「日韓基本条約を破棄して新たに締結し直すのならば、日韓基本条約の締結やその時に8億ドルの賠償金が支払われた事実を公表し、同時に支払った8億ドル全額を一度返却する」という条件を突き付けられた結果、韓国側は一旦保留という形で引き下がらざるを得なくなる。

その後、元・徴用工達の不満を抑えきれなくなった結果、2005年以降に韓国政府は1円当たり2000ウォンとなる慰労金(総額681億円)を支払う事になったが、そんなはした金で元・徴用工達や遺族達が納得するはずもな無かった。


2009年、日本の司法が駄目ならば自国である韓国の司法に頼ろうと、4人の元・徴用工が原告となりソウル地方裁判所にて訴訟を起こす。しかし、自国が勝手に出した判決を他国に従わせようとするこれは国際法を完全に無視した日本の自治権への侵害行為でしかなく、実際にソウル地方裁判所も「元・徴用工達に支払われるはずの慰労金は、日韓基本条約にて日本が無償で支払った3億ドルの中に含まれている為、日本政府に請求権の行使は出来ない」と判決を下される。それでも食い下がる4人の原告は、日本で言うなら最高裁判所に当たる韓国の大法院へと裁判を持ち込むのだが、信じられない事に韓国の大法院は、2012年にて「請求権はある」という判決を下してしまう事態となった。

当然、日本政府側や訴訟を起こされた企業側は全く相手にしなかったのだが、大法院にて元・徴用工達が勝訴してしまったのを機に、元・徴用工を名乗る者達による訴訟が次々と起こってしまう。最終的に「原告」が1000人越えとなるのに加え「被告企業」は115社に及ぶという有り得ない事態にまで膨れ上がり、法を無視して国民感情を優先する大法院の賠償判決は3件(日本製鉄1件と三菱重工業2件)までが確定。徴用工問題は暴走の一途を辿る事となった。

そして、調子に乗った原告側の元・徴用工達は憲法裁判所にも提訴が行うのだが、こちらの方は元・徴用工達の日韓基本条約を違憲とする主張を認められず、徴用工問題を巡る裁判騒動は勢いを失うかに思われた。


だが、2016年にて日本の三菱マテリアルが、中国にて謝罪と賠償を行い一人10万元を支払ったったのが切っ掛けで、これにうまく便乗しようとまたしても元・徴用工達による訴訟の勢いが増す事態となる。

更に、これを機に韓国政府は慰安婦問題をテーマに建てられた「慰安婦像」に倣って新たに「徴用工像」を制作させ、最初に釜山の日本領事館に設置。そして韓国の各地にも同じ徴用工像を設置させる等、日本政府や日本国民の神経を逆撫でする行動に出ている。この徴用工像のモデルとなった人物は、韓国の教科書にも徴用工の写真として載せられているのだが、実はこのモデル…1926年に日本の新聞に写真で掲載されていた正真正銘の日本人労働者であり、「作家が悲惨そうに見える写真を適当に使う形で徴用工像を制作した」という間抜けな事実が世間に知れ渡った後、韓国は自国内はおろか日本や世界中からの失笑を買うという余計な大恥をかく羽目になった。


日本の激怒と企業の撤退編集

これまで徴用工問題に関する訴訟と賠償請求に関し、国際法を無視してでも勝手に進めていた韓国政府側や大法院、元・徴用工達の暴走に対し、日本政府は静観するスタンスを取っていた。だが、2018年にて大法院が「新日本製鉄は原告の4人に対して一人1億ウォン(1000万円)の賠償を支払う事を命令する。これに従えない場合は、韓国国内の日本企業の資産を差し押さえて売却し、そこから原告4人に対する賠償金に充てる物とする」という判決を下す事態となり、原告4人や元・徴用工達は自分達の勝訴に歓喜する。

だが、この法治国家から逸脱した暴挙とも言える行いは、日本政府を遂に激怒させる事になり、当時の内閣総理大臣である安倍晋三首相でさえも「国際法に照らして有り得ない判断で、日本政府としては毅然として対応する」とコメントする等、怒り心頭の様子を見せる程であった。

しかも後に、この原告4人は全員が応募に応じる形で労働を行っていた「募集工」であった事実も判明し、実質的に「金目当ての詐欺行為」と言わざるを得ない4人の原告達の訴訟に対し、日本政府や日本国民はおろか、世界中からの反感と嫌悪を駆ってしまう事になっている。


日本政府は、「韓国政府は、募集工や官斡旋工による労働者達も『意図的』に含める形で『日帝強占期徴用被害者』、『日帝強占期強制動員被害者』と表現している。募集主の差はあれど『募集工』や『官斡旋工』までも1944年9月以降の『徴用工』達と同様という誤解を招く表現を即座に止め、日韓基本条約の存在やその時に支払った賠償金について国民に周知させよ」と警告する。

しかし、それに対し韓国政府側は悪びれないばかりか、「『募集工』や『官斡旋』も事実上は朝鮮総督府による強制動員であり、日本政府の主張は強制性を希薄にさせるか、朝鮮人の強制動員そのものを無かった事にする策略である」とまで主張し、今回の判決を機に、韓国政府は国内に存在する日本企業の資産全てを差し押さえ、それを海外等に売りさばく形で現金化を行おうとしていた。


だが、韓国政府や大法院による暴挙は、思わぬ事態を招く。元・徴用工達から訴訟を受けた三菱重工業を始めとする日本企業だけでなく、日韓基本条約締結後に韓国へとやって来た外資系企業までもが次々と韓国からの撤退表明を出す事になったのである。外需依存である韓国にとって、これは経済崩壊を招き兼ねない危機である。

韓国の大法院の下した「法律」よりも「国民感情」を何よりも優先させようとする賠償命令は、日本だけでなく海外から見ても意味不明で有り得ない話でしか無く、大法院の牙をいつ何が原因で向けられ、資産を没収・売却されてしまうか分からない日本企業や外資系企業にとって、もはや韓国はデメリットしかない無法地帯も同然の場と言えた。韓国政府側は「今回の賠償命令はあくまでも日本の身に該当する事で他国の企業は問題無い」と外資系企業の撤退を引き留めようとするも、彼等から見れば「韓国に嫌われたらおしまいである」という事になり、当時の大統領である文在寅の扇動による日本製品の不買運動の影響も重なって、韓国では日本企業だけでなくそれ以外の他国企業の撤退を加速化させる事態となった。

当然、企業の撤退により、そこへ現地職員として就職していた韓国人達の大規模なリストラが発生。雇用も激減する事態となり、若者の失業率が一気に26.8%にまで爆増しその不満が韓国政府に向けられ、流石に焦りを覚えた韓国政府は徴用工問題を早急に解決すべく、3000人もの機動隊を動員する形で徴用工像の撤去を開始(慰安婦像は撤去せず)。釜山の日本大使館前に置かれていた徴用工像も撤去された。


2020年には、賠償金の支払いに関して、韓国政府は日本政府に打診して「賠償金は韓国政府が肩代わりする代わりに、日本政府や企業は韓国国民に対し謝罪を行う」という代替案を国民には内密で行うが、韓国政府のプライドを守る為にそんな事をしなければならない道理など無い日本政府は当然ながら拒絶している。

同時期、韓国内のソウル地方裁判所が、大法院の「請求権はある」という判決に対し「1965年の日韓請求権協定に基づいて提供した計5億ドルの支援が『漢江の奇跡』と評される輝かしい経済成長に寄与した」と逆に否定。一方で元・徴用工側は「8億ドルでは韓国の経済協力の資金として少なすぎる」と反論する等、韓国内の司法は大混乱の状態に陥る。実はこの時の判決に関しては、韓国政府からの圧力もあったとされており、もし司法が請求権を認めて日本の資産売却を正式に命令する判決となれば、判決確定の翌日となる6月11日においてイギリスのロンドンで開かれるG7サミットの場にて、先進国首脳達の前で韓国は日本から糾弾される事態になり、国際的信用の暴落が免れられないのは明白であった。この為、韓国政府は何が何でもこの時に請求権を認めさせる訳にはいかなかったのではないかとされている。まあ、この時点で既に手遅れだったかもしれないが…。

その後は、徴用工問題に関する訴訟を行っていた元・徴用工側の間でも、これ以上賠償金をせしめる為に訴訟を起こす事に疲れて降りる事を望む者達が出始め、賠償金の一部を得る為に訴訟の後押しを行っていた市民団体がそれに納得せず原告達との間で揉め事が発生してしまう等、徴用工問題を巡る問題は更なる暴走へと発展していった。


2024年、あくまでも「国民感情」を優先する大法院は、とうとう新日本製鉄に対し2018年に下した賠償の判決を正式に命令。韓国国内の新日本製鉄の資産現金化が正式に決まった報を受け、韓国内の外資系企業も本格的に韓国からの撤退を実行に移す事になってしまった。なお、同時期に、韓国政府は2020年に日本政府へ提案した代替案を再び打診しているのだが、日本からは完全に無視を決め込まれる。

一方で、後に韓国政府が日本政府に代替案を出した事実を知った原告側や元・徴用工、その遺族ら全ても、「あくまでも日本が謝罪と賠償をしなければ意味がない。日本が謝罪と全額の賠償支払いをしなければ、自分達は断固として賠償金を受け取らない」と、こちらも断固拒否。韓国国民のプライドの高さが悪い形で発揮されてしまう事態となっている。不等な金利を得る目的で、元・徴用工や国民達を煽った韓国側の反日政策は、もはや韓国政府でさえも歯止めの利かない事態へと発展していった。

もし、日本企業の資産現金化が本当に実行されれば、日本政府側はこれまで韓国側の企業に貸した借金の全額返済要求(韓国全企業の日本からの借り入れ総額は420億円)及び今後の借り入れの一切禁止による金融制裁を検討しており、実行されれば数十兆から数百兆規模のウォンの損失は免れられないとされている。その他にも、日本国内に存在する韓国資産の押収、駐韓大使の「一時帰国」という名目の撤退、韓国製品への追加関税を始めとする輸出規制の更なる強化、ビザ発給そのものの禁止等が行われる事を日本政府側から警告されており、これら全てが実行されれば韓国の国家自体が破綻の危機に陥る事になる。


朝鮮人労働者追悼碑編集

2001年、第二次世界大戦終結後からの50年の節目に結成された在日韓国人の市民団体が、「群馬県の18カ所の場で4600人もの募集工や官斡旋工、徴用工といった朝鮮人達が労働させられ事故で命を落とした者もいた」という事実を突き止めたのを機に、群馬県の公園に当時の朝鮮人達の慰霊碑を建立させる事を当時の群馬県知事に要求する。

しかし、市民団体側が慰霊碑に「強制連行」の文字を入れる事を断固として主張する等、明らかに反日思想の政治的パフォーマンスを目的とした意図があると見ていた県庁側は、「県議会が通らない可能性がある」という名目で慰霊碑の建立を許可しようとしなかったが、交渉の開始から2年後に「あくまでも『慰霊』を目的に建立し、『強制連行』の部分を『労務動員』に変え、政治的行事は絶対に行わない事」を条件とする形で、県庁は10年という期間限定という形で朝鮮人労働者の慰霊碑建立の許可を行った。


慰霊碑の建立は群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」で行われ、この一帯にはかつて陸軍の岩鼻火薬製造所があり、製造所の従業員・遺族ら関係者の有志が設置した「ダイナマイト碑」などの様々な記念碑が設置されていたのが、建立の場として決められた理由であった。また、慰霊碑建立を機に、市民団体は「記憶 反省 そして友好の慰霊碑を立てる会」と名前を変え、慰霊碑建立に活動を注力する事になった。

群馬県庁からの許可が下りて1年の過ぎた2004年、群馬の森の一角に慰霊碑が建てられる事になったのだが、慰霊碑の表面に「記憶 反省 そして友好」の文字があったのに対し、裏面には「多大なる損害と苦痛を与えた歴史を深く記憶にとどめ、心から反省し二度と過ちを繰り返さない決意を表明する この碑に込められた私達の思いを、次の世代に引き継ぎ さらなるアジアの平和と友好の発展を、願うものとする」というメッセージが日本語ハングル語の両方で刻まれており、日本人によってはかなり引っかかる内容となっていた。


その後、歴史を風化させない名目で毎年慰霊碑の前で慰霊碑を立てる会の主催による追悼集会が行われ、多くの人々が献花に訪れる事になっていたのだが、追悼集会が毎年行われる度に慰霊碑を立てる会の主張が徐々に攻撃的になっていった事で近隣住民から反感を買っていく事になり、元々石碑の建立に反対していた市民団体が慰霊碑を立てる会や公園のスタッフと押し問答を起こす事態にまでなる等、「群馬の森」は公園としての存在意義が失われつつあった。また、群馬県の県庁に対しても、慰霊碑の撤去を求める苦情のメールや電話が数多く寄せられ、その数は約2年間でおよそ400件に上る程となっていた。

そして、慰霊碑建立から8年の月日が経った2012年の追悼集会にて、県庁と約束を完全に反故にする形で慰霊碑を立てる会は「強制連行」、「謝罪」、「賠償」等の言葉を使った日本への恨みつらみを全開にした反日の政治的パフォーマンスを公然と行う等、そこに慰霊碑に刻まれている「友好」を示す光景は欠片も無かった。この結果、慰霊碑を立てる会側は県庁との約束を最初から軽んじていた事実が明確となり、公園内にて我が物顔で振る舞う彼等に関し、慰霊碑建立の許可を行った群馬県議や群馬県庁への抗議が広がった事で、群馬県県庁の怒りを買ってしまう事になった。


慰霊碑に関する公園使用の更新を迎えようとした2014年、群馬県庁の山本一太知事によって「慰霊碑の存在自体が論争の対象となり、憩いの場である公園に相応しくない」という理由から、更新の不許可を定められた上で慰霊碑の撤去が言い渡される。これに対し慰霊碑を立てる会は不服を申し出て訴訟を起こし、団体名も「記憶 反省 そして友好の慰霊碑を守る会」へと変更する。

そして2018年、前橋地方裁判所で第一審が行われるのだが、裁判所側は慰霊碑の存在が原因で反日思想の政治的パフォーマンスやそれを巡って相次ぐトラブルが発生し県庁にも大量の苦情が来ている事実を認識しながら、「2012年の5月以前は慰霊碑に関する抗議は無く、公園の利用者は減っていない為に憩いの場としては問題無く機能していた」という、明らかに慰霊碑を守る会側を贔屓する形で群馬県庁側の行為を違法扱いするという不条理な判決が下されてしまう。

当然、県庁側は控訴を行って第二審へと持ち込まれる事になるのだが、これ以降は慰霊碑の撤去を求める市民団体と慰霊碑を守る会による対立が悪化。群馬の森とその周辺で彼等のいがみ合う様相が巻き起こり、巻き込まれるのを恐れた地元市民も立ち寄らなくなり始める事態となっている。そして、2021年に最高裁判所で行われた第二審では、「慰霊碑を守る会の追悼集会での発言が原因で政治的中立性が失われ、慰霊碑の存在自体が論争の原因となり、都市公園の設置物として相応しくない為、更新の要求を却下し慰霊碑を撤去させる事を妥当とする」という判決が下される。二審後、今度は判決に納得のいかなかった慰霊碑を守る会側が控訴する事になったのだが、「憲法解釈における誤り」、「訴訟手続きにおいて重大な違反があった」、「重大な法令違反があった」といった審議条件を満たしていなかった為に控訴は認められず、二審の「撤去」で判決は確定する。


その後、群馬県庁より慰霊碑を守る会は正式に慰霊碑の撤去を命じられるのだが、慰霊碑を守る会は「表現の自由を保障する日本国憲法に違反している」という詭弁で裁判の判決に無視を決め込もうとする。止む無く群馬県庁はしばらく様子を見る事にするのだが、慰霊碑を守る会は世間からの同情を引こうと日常的に群馬の森周辺で「慰霊碑撤去の拒否」や「表現の自由」を主張して騒ぎ立てる。

判決から10ヶ月が経った2023年の4月、群馬県庁より慰霊碑を守る会に対し、「これ以上、県庁からの命令に従わない場合は、行政代執行によって強制的に慰霊碑の撤去を執り行う」と、実質的な最後通告を受ける事になった。

しかし、慰霊碑を守る会は県庁からの最後通告も断固として拒否の方針を取り、2023年の6月には慰霊碑の撤去を望む市民団体とまたしても衝突。慰霊碑の前で双方共に集会を開いて騒ぎを起こし、近隣住民に多大な迷惑をかけている。そして設置更新が不許可となってから9年が経った2024年の1月29日、とうとう痺れを切らした群馬県庁によって行政代執行が実行。慰霊碑を守る会が暴動を起こす等の不測の事態に備えて大勢の警察官が警備に動員され、業者によって慰霊碑の撤去が正式に行われた。


撤去完了後、撤去命令を再三従わなかった慰霊碑を守る会には、行政代執行で掛かった撤去費用の2062万円の支払いが請求される。だが、慰霊碑を守る会は前橋市の県教育会館で総会を開き、会の解散を宣言。県側に同日付で送付した解散通知書の中で「支払い能力がない」と回答する事で撤去費用支払いの踏み倒しを行うだけでなく、新団体を発足させて慰霊碑の再建を行う事を宣言する等、最後の最後まで自分勝手さを見せた。

慰霊碑の撤去から約2ヶ月が経った後、この件に関して大きく不満を持っていたと思われる尹徳敏駐日韓国大使から、山本知事に対して面談したいという申し立てが行われる。これに対し、山本は面談において「マスコミや一般関係者も立ち会わせたフルオープンで行いたい」という条件を出した結果、大使側は難色を示し、結局面談は中止となっている。その後の記者会見にて、この面談中止に関する質問を朝日新聞の女性記者にされているのだが、「駐日大使からの面談申し込みに対してフルオープンを提案したのは、韓国側の情報が不透明である事を暗に示し、失礼に当たるのではないか」と明らかに韓国側を擁護する質問を行った彼女に対し、山本知事は「慰霊碑の問題とその経緯について考えた結果、韓国の情報提供に関しては確信が持てなかったと申し上げただけで外交的に礼を失しているとは思わない」と毅然とした返答をしている。これに関しては、Youtube等の動画で見た視聴者等からも、終わった事について何度も蒸し返す様な質問を行った女性記者や彼女の所属している朝日新聞の方が厳しく批判される事になっている。


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労働者 第二次世界大戦 日韓基本条約

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