概要
- 儒教における統治の正しいやり方・あり方。そこから転じて、「物事の正しいやり方・あり方(正攻法、正統派)」の例えとしても使われる。孟子が説いた儒教の理想の政道で君主が仁徳を持って国を治めること。反対語は覇道。
- 欧米の慣用表現"royal road"の直訳。王の為に整備された歩きやすい道。転じて「安易なやり方」という例えで近道。「学問に王道なし」。
辞書(国語辞典)では複数の意味・用法がある場合、基本的あるいは一般的な用法を先に表記する事が多いが、2021年現在、近年に改定されたほとんどの辞書では儒教の王道を上位としている。
近年では創作やフィクションにおける用語としても使われており、pixivでは主に正統派の意味で用いられているが、ただそれが行き過ぎるとベタやお約束として見られてしまう場合もある。
またキャッチコピーとして使われる事もあり、全日本プロレスのジャイアント馬場~三沢光晴時代に使用された事もある。
誤った誤用説について
インターネット上で「王道」の意味について検索すると「2が本来の意味であり、1は誤用(が定着したもの)」とする情報が多数見られるが、これは低い俗説であるため以下に解説する。
「正しい"王道"が2つある」が学術的正解である。
概要をご覧いただけば分かるとおり、この2つの使い方は由来が全く異なる。国語学や日本語学、言語学といった専門的な視点から言えば、このように明確に成り立ちが異なる言葉は字面が同じでも別語扱いとするのが普通である。
- 儒教の用語から産まれた、「正攻法・正統派」という意味の王道。
- 欧米のことわざから産まれた「安易な方法・楽な道」という意味の王道。
この二つの王道は同じ文字だが意味は全く別物でありゴッチャにしてはいけない。関係的にはどちらかが変化したとかではなく「両方がオリジナル」となる。これが「言葉のプロっぽい分類しかた」である。見ればわかるが二語の関係を説明するのに「時代による言葉の変化」といった概念を当てはめる必要はない。
言葉の変化は実際起こる事もあるが、どんなケースでもそれで説明出来るわけではない。毎回「言葉は変わるものです、誤用が定着しました」みたいなオチをつけようと狙っていくのは素人臭い「ナントカの一つ覚え」というものであろう。
ちょっと話が脇にそれたが、2つの「王道」は言葉の変化や誤用とは無関係に双方正しい。その上で、どう考えても「欧米のことわざの訳語のほうが儒教用語より先に日本に定着していた」という話にはかなり無理がある。一般的には「正攻法・正統派」で有名な王道の方にちがいないだろう。
「儒教の王道→正攻法」は意味の変化とは言えない
「儒教の王道」を「王としての正しい道」という所から転じて正統派、正攻法というニュアンスで使う事は戦後すぐからあり、これは最近出来た使い方ではない。このような使い方は、元の意味を踏まえた比較的ストレートな比喩であると言える。つまり使う方は元の意味を知っているから例えに使い、見る方は元の意味を知っているから例えが通じるということだ。
「元の意味を踏まえて、と言っても、みんな儒教の王道なんて知らないんじゃないか?」と思う人もいるだろうが、意外とそうでもない。「王道・覇道は北斗の拳に出てきたから知ってる」という意見も存在する。
時代劇・時代小説の頻出ワードという面もあり、また大日本帝国がアジア進出の倫理的背景の一つとした事から日本の近現代史を学ぶと遭遇しやすい概念でもある。大人は大体「王道の本来の意味(儒教的な意味で)」を大まかに知っていると考えて良い。
語彙ではなく修辞の問題と言うべきか、このようにすぐに簡単なたとえであると分かる様な使い方に関しては、本来の意味と少しズレた使い方をしても「言葉の意味が変わった」と見なされない場合がある。
なんでも「言葉の変化の話」に結び付けてしまう人には悪いのだが、少なくともここ6〜70年のスパンでは実データとして「王道」の使い方が変化した様子はない。
「ことわざ専用の表現」としての王道
見た目は同じでも意味が違う2つの王道。この2つ見分け方や使い方としては「安易な方法・楽な道」の王道は「学問に王道なし」という欧米由来の慣用句を翻訳したいが為に出来た「専門用語」なのだ。
- 「学問に王道なし」ということわざ。
- 「これは外国のことわざを訳したものなので、『儒教の王道』とは別物だよ」という豆知識。
これらの情報が一体となってはじめて意味が分かる特殊な言葉であり、この慣用句の一部として使うか、それ以外の話には出てくく普通の文章にバンバン使っていた形跡は見られない。「本来の王道は『楽な道、安易なやり方』という意味です」として使われているのなら「ミステリーの王道を行く作品」という言葉が「安易なミステリー小説」という意味になってしまうので「安易な方法・楽な道」の王道は「ことわざ」として捉えるのが良いだろう。
誤用説が出来た原因
これに関してはある程度原因が絞れるところがあり、00年代の半ばくらいまでの国語辞典の大半に王道の意味は「安易な方法・楽な道」しか載っていなかった、という情報がある。
辞書も人が作ったものであるから、一般的に通用していて特に誤りとはされていない「普通の言葉」がうっかり収録されていない、という事もある。辞書の編纂者や売っている出版社の側でも、べつに「日本語は辞書に載っている分だけで全部です」とも「辞書に載っていない言葉は間違った言葉です」とも言っていない。
すなわち「辞書に載っていないから間違い」というのは理屈としては通らないというのが常識なのだが、時折「みんなの使っている言葉が辞書に載っていない!これは間違いだ!」というような事を言って騒ぎ出してしまうような事が起こるのである。有名な事件としては一時期やたら「一人で大笑いするのを爆笑というのは誤用だ」と他人にからんでくる人が大量発生したのを御記憶の方も多いだろう。
あの不快な騒動は結局「爆笑という言葉は発祥当初から大笑いする意味があった」と調べがつき、誤用が定着したのではなく「昔からあった意味が辞書に追加され、辞書がより詳しくなった」事により、誤用研究家の皆様が赤っ恥をかくとともに終息をみる事となった。こうした騒動は注意深く見ると大小取り混ぜて何度となく起きており、定期的に繰り返される面白イベントの様相を呈している。
どうやらこの「王道」の誤用問題も考えの足りない人が言い出した「面白イベント」の一つであるようで、辞書に「royal roadの訳語」という説明しか載っていなかった時代には威勢が良かった「誤用研究家」諸氏も辞書の改定が進むにつれて急速に梯子を外されつつある。
王道とベタの違い
人によって意味合いが混合されがちな二つの言葉であるが、その違いは視点にある。
王道の視点は、一般的に想定される「正しさ」に置かれるものであり、ひいては「誰もが納得するもの」といった方向性を目指すことに使われる。
難解で納得しにくい内容では読者が置いてけぼりになって離れてしまうため、読者に合った「共感性」や「とっつきやすさ」というものも必須であり、その上で「王道」というものが創作の中では一種の指標になっているのである。
一方のベタとは「ひねりがなく、面白味に欠ける」という意味であり、物事に対する「面白さ」に視点が置かれるなど、王道の方向性とは異なってくる。
「面白いか」や「工夫されているか」は王道という指標にはあまり関係せず、また「納得できるか」や「理解しやすいか」もベタという指標にはあまり関係はしないのである。
そのためか、筋や大枠が王道なものであったとしても、ひねりがあって面白いと評されるものはベタとは言わず、逆に王道といえないものであっても、ひねりがないためにベタと捉えられるケースもある。