対立
北条早雲以来後北条家は堅牢な小田原城のある小田原を中心に関東一帯を治め、上杉謙信の小田原攻めも退けた。織田信長からの政権を受け継いだ豊臣秀吉は西日本を支配下に治め、天下統一を完遂すべく、後北条家に臣下の礼を要求したが、当主の北条氏直はこれを拒否。私戦を禁じた「関東惣無事令」が発布されており、豊臣家との対決は必至と見なした氏直は軍備を増強。叔父の北条氏規を代理で上洛させるなどして交わしてきたが、天正17年(1589年)に叔父の北条氏邦の部下が真田昌幸の名胡桃城を襲撃して奪ったことから、秀吉は違反行為を見なして小田原への遠征を決定した。
開戦
1590年(天正18年)春頃、秀吉は毛利輝元を京都守護に任じて出発。この遠征には徳川家康、織田信雄、蒲生氏郷、黒田孝高、豊臣秀長、宇喜多秀家、細川忠興、小早川隆景、吉川広家、堀秀政、池田輝政、浅野長政、石田三成、長束正家、立花宗茂、大谷吉継、高山右近、大友義統、加藤清正、福島正則などを引き連れ、海路から水軍として長宗我部元親、加藤嘉明、九鬼嘉隆などが向かい、北方方面から前田利家、上杉景勝、真田昌幸が参陣し、合わせて約21万人動員された。また千利休や茶々も連れていた。
一方の小田原方も迎撃準備を進め、八王子や韮山の城を整備し、約8万人を動員した。
3月末に秀吉は沼津に到着し、各陣営を各敵城に割り振って攻撃を開始。
忍城に対しては6月から7月も三成指揮の下で包囲戦が続き、成田長親や甲斐姫は懸命に籠城戦を続け、合戦全体の中では最後まで抵抗した。
現在の八王子市にある八王子城では留守の城主氏照の代理が指揮し、武士団や領民など約3千人が立て篭もったが、景勝・利家・昌幸による総攻撃を受け落城し、逃げ出した婦女子は川に身投げした。
各地の北条方の城は次々に落城や降伏が続いていった。
6月になると豊臣方優勢であったが、両軍ともに士気が下がり始めていた。6月末に小田原城を望むように石垣山城が作られ、氏直は降伏を決断。7月に氏直は家康の陣中に自ら向かい、自らの首を差し出して城兵たちの助命を求めた。堅城・小田原城は開城され、合戦は終結を見せた。
戦後
遅参した伊達政宗は秀吉の前で死に装束をまとって参り、それまで明確にしなかった恭順姿勢を見せた。かくして秀吉の支配領域は関東や東北にまで及び、天下統一は完遂された。
それまで三河の地を治めてきた家康は、秀吉の命を受けて後北条家の代わりに関東への移封された。左遷同然であったが、家康は江戸城を中心に江戸の都市開発に着手し、その後の大都市への道を築いていった。
秀吉は日本統一を完遂できたが、それに留まらず大陸制覇を目論んで朝鮮出兵を決定した。
題材作品
作中で「小田原攻め」を題材にしたものや、関わる筋書きのある作品。