概要
「もののふ」とも読む。武士とは、平安時代中期(10世紀)から明治時代初期(19世紀)にかけての日本に存在し、国家の公的武力を担う共同体の成員のことを指す。
武士内部でも身分は細分化されており、上級武士と下級武士の身分差が非常に大きい。家格や役職のほか、官位や家柄などで表される複雑な序列がある。
武士のもとで働いた武家使用人(中間・小者など)や足軽は農民などの家に生まれた者も多く、足軽の世襲化が進んだ江戸時代にも武士には入れられないことが多かったらしい…。
侍とは、平安時代において、下級官職を持つ役人の事で、のちに武士とほぼ同義語になった。
平安時代
※以下、武士に関する事項のみ。その他の事項は各時代の項目を参照。
前期には、軍の兵士は軍団への徴兵で、士官は官僚となった貴族で確保していたため、まだ武士と呼べる存在はいなかった。
その後、朝廷の軍事活動が下火になり、その一方で地方の有力者がしばしば治安を乱すため、対抗手段として有力者やその従者による弓騎兵を主体とした機動力の高い部隊で治安維持を行うようになる。
また、比較的下級の貴族が地方に土着して、役所(国衙)の役人(官人)や荘園の管理者(下司など)となり武装するようにもなった。
また、朝廷の貴族の中にも、軍事関係を家職とする家系が現れる。
……このように複雑な過程を経て武士が発生したため、その起源についても学者の間で諸説ある。
武士の中でも平清盛等の太政大臣の位が与えられたものは貴族の仲間入りを果たしている。
そして、地方での有力者間の抗争や、中央での貴族間の政争を経て、後期に桓武平氏の一族である伊勢平氏が覇権を握り、平清盛が初の武家政権である平氏政権を築き上げる。
なお、僧兵は武士ではなく、実務担当の僧侶(堂衆)が武装したものだが、のちには次第に武士との違いが小さくなる。
鎌倉時代
平氏政権を滅ぼした源頼朝の勢力が、貴族としての家政機関を原型として鎌倉幕府を樹立する。初期には東国など国内の一部にしか勢力が及んでいなかったが、承久の乱でそれまでの最大勢力であった院(上皇・法皇とその近臣)に対して優勢になり、全国的に力を及ぼすようになる。
当時の武士は、幕府の将軍に仕える「御家人」と、その他の武士に分かれていた。ただし、御家人でない武士にも、末期の元寇を契機に幕府の支配力が及ぶようになる。
平安中期からこの頃までの武士は、大鎧を着て弓と太刀を持って馬に乗るという、一番古典的なイメージの姿をしている。
南北朝~室町時代
鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、武士も朝廷で一括支配する事を試みたが、武士に対する軽視が災いして、足利尊氏が北朝を擁立して離反してしまう。尊氏が開いた室町幕府は、南朝と戦うため(と、味方の武士の離反を防ぐため)に朝廷(北朝)の支配権を幕府側に次第に吸収していき、貴族や寺社に仕えるごく少数の武士を除き、すべての武士を支配下に置くようになる。
当時の武士は、各国を支配する守護大名の支配下に置かれる事が多かったが、幕府に直属する「奉公衆」なども存在した。また、農民や町人の富裕層が家来を引き連れて武士化する事も多くなる。
武士の装備も従者を率いた集団戦寄りになり、鎧も徒歩に適した胴丸などに変わる。
戦国時代
守護大名は次第に幕府のコントロールを離れ、または守護代・国人などに打倒され、戦国大名が現れる(ただし、国人の勢力が乱立していた地域も多い)。下剋上の時代ではあったが、武士の勢力は家臣団次第でもあったため、武士以外からのし上がった者は非常に珍しい(その希少な例が豊臣秀吉。斎藤道三も父からの二代がかりでようやく一国を支配できた)。
当時は庶民も普通に武装していたため、武士と平民の境目が一番あいまいだった時代かもしれない(ただし、単に私的に武装して徒党を組むだけの者は武士と認識されなかった)。なお、この時代に登場した足軽は、武士と同様に含まれることはあまりなかったという。火縄銃も用いられるようになり、鎧が徒歩戦闘に適し防弾性能をそなえた当世具足に変わる。
江戸時代
江戸幕府が成立して、武士が「百姓」「町人」と並ぶ身分として確定された。
……と言い切れれば楽なのだが、武士も「将軍」を頂点として、その下に、大きな領地を持つ「大名」・将軍直属の「旗本」「御家人」・大名や旗本に仕える武士(将軍から見ると「陪臣」だが、大名並みの領地を持つ者も含む)・武士に入れられない「足軽」・その下の「武家奉公人」があり、公家や寺社に仕える武士もいた。そのほか、武士と一般人の中間的な扱いを受ける「郷士」や、主君を持たない「浪人」も存在した。
武士の装備は戦国時代のものを概ね引き継ぐが、実際の戦争がない時代が続き、官僚及びその予備軍としてのみ存在し続けるうちに、戦力としての質は下落を続けていた。侍の存在意義である戦闘が全くなくなったため武士としての倫理を構築する必要に迫られ、様々な思想が登場し後の武士道に繋がっていく。
幕末~明治時代
幕末には、戦国時代とあまり変化のない装備では西洋列強の軍に対処できない事が明らかになり、幕府や西国諸藩は軍事改革を行う。その過程で一部の藩では、下級武士の出身者が功績を上げる等と、武士の存在意義である「戦う人」という意義が更に失われていくことになる。
戊辰戦争では、新選組が旧政府軍に対抗したがすぐに鎮圧された。
そして版籍奉還により、すべての武士は家禄(簡単に言うと給料のようなもの)を(公債を付与される代わりに)取り上げられ、廃藩置県で大名も藩主の座を失う。大名や新政府の高官などは華族となったが、それらは極少数である。その他の圧倒的多数は、士族という名称を与えられたが特権は与えられず、多くは実業家、官僚などに転身していった。特に現在では実業家は岩崎弥太郎が設立した三菱グループ、多くの企業を創りだした渋沢栄一、日産の創業者等と今の日本企業の礎を作り、官僚でも大隈重信などの政治家の子孫が活躍している。また武士的精神は今でも日本精神として生きている。
政府による一方的な特権取り上げに不満を持った士族は佐賀の乱や西南戦争のような反乱を起こしたが、日本陸軍の圧倒的な兵力により鎮圧され、士族の反政府運動は、国会開設や憲法制定により国民の政治参加を求める自由民権運動に移行していく。しかしそれも長くは続かなかった。
現在士族は消え去り、子孫は方や社長であったり方や官僚、そして没落した者などと多数である。もしかしたらあなたのすぐそばにもいるのかもしれない。