概要
日本においては、神仏習合の思想に基づき、日本神話などの神々と、仏教の尊格(如来、菩薩、明王、天部)とを一体として捉える概念となっている。宗教としての「神道と仏教」という意味もある。
仏教誕生当初から、教えの中で神と仏が同時に存在したが、両者の立場は厳密に区別されている。
阿含経の一部である『ドナ・スッタ』では仏陀は「神でも人でも魔でもない」と記される。
如来十号の一つである「天人師」とは「神々と人々の師」という意味である。
仏教においては神々もまた、輪廻転生に囚われた迷える衆生であり、仏から一方的に導かれる立場にあった。
しかし大乗仏教が発祥すると、特定の神々は実は如来や菩薩の化身であった、とする説が生まれる。
例えば中国における天台宗の祖の一人である天台智ギの説では、月天子は勢至菩薩、日天子は観音菩薩、明星天子は虚空蔵菩薩の化身である。
中国神話の神々もまた、仏菩薩と結び付けられた。中国仏教の護法神太山府君は道教の東嶽大帝と習合しているが、彼らは薬師如来や地蔵菩薩の化身ともされている。
道教の世界観を基にした神怪小説『封神演义』においても、文殊広法天尊(文殊菩薩)など、仏教の菩薩たちが仙人として登場している。
歴史的な詳細は神仏習合記事を参照してほしいが、日本においても奈良時代ごろから、神道の神々が仏教の菩薩号や如来号を求めているという信仰が生まれ、また仏教側も守護神として神道の神々を求めるようになった。仏が化身となって日本各地に神としての姿を現すという論理、すなわち「本地垂迹説」である(義江彰夫『神仏習合』)。
義江によれば、この動きは鎌倉時代に全盛期を迎えた。『沙石集』が伝える伊勢神宮社官の主張によれば、アマテラスは大日如来でもあり、伊勢神宮の内宮と外宮は胎蔵界と金剛界の大日如来をそれぞれ表わしているという。熱田神宮の『神祇官私記』によると、イザナギは熊野権現であり、イザナミは白山権現であるという。『長秋記』が引いた熊野社先達の説明によれば、その熊野の神々は阿弥陀如来を始めとした諸仏に対応付けられている。また、寺社記事にもあるとおり、延暦寺の守護神はオオヤマツミにして釈迦如来、興福寺の守護神はタケミカヅチにして不空絹索観音、そして八幡宮が祀るのは神としての応神天皇すなわち八幡大菩薩となっていたのである。こうして中世における日本神話の諸テキストは、古代の古事記、日本書紀に仏教の観点を加えた新たな解釈によって読み替えられていった。これを中世日本記という(義江彰夫『神仏習合』)。
神仏という概念は室町時代、戦国時代と日本的な神道および仏教信仰のあり方として継続していったが、吉田神道、国学の誕生によって動揺し、明治時代の神仏分離令によって終わりを告げることになった(その詳細は神仏習合記事参照)。