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江戸幕府の編集履歴

2016-07-28 05:52:42 バージョン

江戸幕府

えどばくふ

1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権。江戸(現在の東京)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川氏が征夷大将軍職を世襲したので徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代(織豊時代)とともに後期封建社会にあたる。

概要

熊本城葵の紋章…

 

徳川家の当主が正二位内大臣右大将に叙任され征夷大将軍に任じられて、260余りの武家大名と主従関係を結び彼らを統率するという制度は、1600年代後半までに確立された。

 その将軍の政府を「幕府」、臣従している大名家を「藩」、さらに両者が複合した権力の体制を「幕藩体制」と一般に呼んでいる。「幕府」及び「藩」の語は幕末期に広く使用され、現在も歴史用語として定着しているものの。江戸時代を通じて使用されていた訳ではない。それまでは将軍の政府は「公儀」「公辺(おおやけ)」などと漠然と呼ばれていた。


 江戸幕府の始期及び終期については諸説あるが征夷大将軍の任官時期に着目する場合には、家康がはじめて将軍職に任じられた1603年3月24日(慶長8年2月12日)から、いわゆる王政復古の大号令によって15代将軍徳川慶喜の将軍職辞任が勅許され、併せて幕府の廃止が宣言された1868年1月3日(慶応3年12月9日)までとなる。


 終期には他にも1867年11月9日(慶応3年10月14日)に15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行った時、1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)の江戸開城とする説もある。


徳川将軍が実質的に日本を支配したこの260年あまりの期間を一般に「江戸時代」と呼ぶ。江戸幕府は、日本の歴史上平氏政権鎌倉幕府室町幕府織田政権豊臣政権に続く5番目にして最後の武家政権である。


江戸時代に日本全体に独自の秩序を作った徳川幕府はある意味では朝廷(昔の日本政府)よりも明確な統治を行ったし、鎌倉幕府から始まって『(朝廷などは置いておいて)天下の覇者による侍の統一政治』を完成させた政権としていい。

 しかし、完璧に近い安定を見せたに近い身分制度を採ってみても、国民全員にチャンスを与える平等性や、政治・軍事・商売・農民などを限られた特権階級的な身分に仕立て上げ、人の才能の流動などを考えることはあえて犠牲にしたような節がある。極端に言うと『政治や道楽・商売はお上にまかせて庶民は何も考えず生活していればいいのだ、農民は黙って農業だけをしていればよいのだ。』という向きにも捉えることが出来る。


 『政治や道楽・商売はお上にまかせて庶民は何も考えず生活していればいいのだ、農民は黙って農業だけをしていればよいのだ。』だけで話が終わるとなると、さすがに近代国家、近代政府の民主主義資本主義自由主義社会主義などは相容れるはずがなく、そこらへんが江戸幕府の日本の限界だったのかもしれない。実際、幕府は外国の力(アメリカ合衆国)などに迅速に大要出来ないまま、責任を取り幕府を閉じざるを得なくなった。


政治体制

 徳川将軍家を『最終勝利者』とし頂点とした武士階級による中央集権政権ではあるが、けっして徳川氏だけによる独裁政権ではなく老中若年寄をはじめとする幕閣によって協議され、決定された政策を実行する集団指導体制として機能した政権であった。ただし徳川体制が伝統的絶対権力であることには変わりはなく、265年間敵対勢力が存在しなかったことも踏まえればこの王朝政権の磐石さを物語っている。

 発足当初、幕府は厳しい年貢の取り立てやキリシタンの弾圧、大名の取り潰しを頻繁に行う武断的な政権でったが、寛永14年(1637年)、領主の圧政に耐えかねた農民が島原(長崎)、天草(熊本)で一揆が起こると、それにキリシタンや大名の取り潰しであぶれた浪人が呼応、幕府は鎮圧に半年を要し、双方ともに多くの死傷者を出すこととなった(島原の乱)。さらに慶安4年(1651年)、3代将軍・徳川家光死去の間隙を縫う形で軍学者・由井正雪ら浪人による討幕の謀議が発覚・鎮圧する事件が起こった(慶安の変)。

 これらの事件を重く見た幕府は無理な年貢の取り立てをやめ、「寺請制度」を整備して戸籍と宗教を管理を行い、大名の取り潰しを極力避けるなど、次第に文治的な政権に移行していった。

法体系

 元和元年(1615年)、2代将軍・徳川秀忠は武家を統括する「武家諸法度」、朝廷や公家を統括する「禁中並公家諸法度」、寺社仏閣を統括する「寺社諸法度」を発布した。前述のとおり、幕府は当初武断的な統治を行っており、「武家諸法度」も制定当初は武芸をはげむよう定められていたが、幕政が安定し文治的な統治に移行していくと徐々に緩められ5代将軍・徳川綱吉の世になると学問にはげむよう全面改訂が行われた。

 また一般庶民には新たな法令が定められるたび「御触書き」を記した高札が各地で立てられた。

外交政策

 清帝国朝鮮王朝オランダとの交易を行うため長崎を開いたことが有名。3代将軍・家光は対馬の宗氏を介して豊臣秀吉による朝鮮出兵のため断交していた朝鮮王朝との国交の修復に成功、幕末まで良好な関係を保ちつづけた。

 また、オランダを通じて欧米諸国の情報を入手、ペリーの来航も予期していたため幕末の外交に一定の役割を果たした。

石高制*

  豊臣秀吉の行った検地をもとにした「石高制」を引き継ぐことになったが、幕府財政は米の収穫量を基本としていたため、8代将軍・徳川吉宗の時代になると農業技術の発達により米の収穫量が増えるとともに値崩れし、江戸時代後期には逆に凶作が続いたことにより収入が激減して幕府や各藩の財政難は慢性的なものとなった。その結果、吉宗は米の価格統制を行い、吉宗の死後、実権を握った老中・田沼意次は失脚するまで商人から課税を強化する政策に力を入れることとなった。また、財源に窮した藩は米の収穫量を担保にして借金を続け、中には数年先の収穫量まで担保にして雪だるま式に借金が増える例も少なくなかった。

 また、石高制には盲点ともいえる欠点があった。それは行われた検地があくまで机上の計算であり、実態とかけ離れた例も少なからずあったことである。たとえば熊本藩は加藤清正が河川改修を、仙台藩は伊達政宗が開墾を行うことで石高以上の収穫が得ることができたが、逆に薩摩藩は土地が火山灰に覆われていることが原因で土地がやせており、西国雄藩の面目を保つため年貢の取り立てが他藩よりもさらに峻烈を極めたといわれている。(それゆえ薩摩藩は琉球を通じて中国大陸と密貿易を行っている)

貨幣経済と流通

 江戸時代は、また、貨幣による流通経済飛躍的に発達したことでも知られる。

 それまでの日本は「銭」は中国からの輸入に頼っていた部分が大きく、国内で鋳造されるものは皆無に等しく、輸入した「銭」の1/4の価値しかない質の悪いものが細々と作られるに過ぎなかった。(「私鋳銭」、または「悪銭」、「びた銭」ともいう)

しかし泰平になると五街道をはじめとする道路、太平洋、日本海、瀬戸内海を周遊する海路が整備され、それぞれに流通経済が発達することとなった。

 そこで幕府は金貨を鋳造する「金座」、銀貨を鋳造する「銀座」、銅貨を鋳造する「銅座」を設置し、それが日本全国で流通することとなった。(とはいえ小判をはじめとする小判は主に江戸で、銀貨は主に大阪で流通するのだが・・)

 また、それとは別に各藩は「藩札」というものを独自に発行していた。これは現代でいえば「国債」が借金であると同時に紙幣的価値をもつというものであり、仮に藩が「お取り潰し」にでもなれば直ちに紙くずになるものであった。

自治制度(幕藩体制)

 基本的に幕府は各藩の統治に介入することはない。各藩は独自に法令を定め領地を治めることになるが、大名に後継者が見たらない場合、施政に不備がある場合には幕府からの介入をまねくことになり、悪くすれば取り潰されることもあった。

 また、一年おきに領地と江戸を往復する参勤交代、幕命による土木事業のほかに、面目を保つための支出もあって各藩の財政は逼迫することとなり、各藩は財政再建のため倹約令を発したり新作物の開発するなどして工夫したが大抵はうまくいかず、財源確保のために借金を繰り返すことになった。

学問・学校

 幕府が設立した「昌平黌」を頂点として各藩で藩校が作られた。しかしながら、これらの学校で教えられたのは儒教論語を中心とした東洋の学問であり、西洋の学問が教えられたのは幕末に神戸に作られた「神戸海軍操練所」が最初で最後だった。

 西洋の学問を教えたのは独学で洋学を学んだ佐久間象山緒方洪庵らの私塾だった。彼らは自ら塾を経営して人材を育て、優秀なものが幕府や各藩に召し抱えられることとなった。

 また、それ以外の塾の各地に散らばっていた。それらの塾も簡単なそろばん、読み書きを教える「寺子屋」から、国学や心学、東洋医学を教えるもの、「和算」の研究を行うものなど多岐にわたっていた。(ちなみに「和算」の研究は世界でも有数の高度なものであり、明治になってそれを見たヨーロッパの数学者は驚愕したという)


大名政策

親藩

 徳川氏の一族、一門の大名であり、家格としては家康の九男・十男、十一男を祖とする御三家(尾張、紀伊、水戸)、家康の次男・結城秀康を祖とする越前・松平、秀忠の四男・保科正之を祖とする会津・松平と続き、それに家康の異母弟や親戚、将軍の庶子などを祖とする大名がそれに続いた。

  • 尾張・徳川家…家康の九男・徳川義直を祖とする御三家筆頭、62万石を領し、代々、大納言に任じられた。
  • 紀伊・徳川家…家康の十男・徳川頼亘・を祖とする後三家第二位、55万石を領し、代々、大納言に任じられた。8代将軍・徳川吉宗、14代将軍・徳川家茂を輩出する。
  • 水戸・徳川家…家康の十一男・徳川頼房を祖とする御三家第三位、28万石を領し、代々、中納言に任じられた。家格は尾張・紀伊に譲るが江戸常府を認められていた。後に15代将軍・徳川慶喜を輩出した。
  • 越前・松平家…家康の次男・結城秀康を祖として家格は後三家に次いだ。当初52万石を領し、秀康の長男・松平忠直のころには68万石を領していたが、忠直は不行跡のために配流され、すぐに秀康の次男・松平忠昌が50万石を領し存続を許された。後に徐々に減封され幕末には35万石を領することとなった。
  • 会津・松平家…秀忠の四男・保科正之を祖として家格は後三家、越前藩に次いだ。正之は2代将軍・徳川秀忠の四男ではあるが正室・江の生んだ子ではなかったため、信濃・高遠藩主・保科正光の養嗣子となる。当初は認知を渋った秀忠の死後、長兄・家光に引き立てられ山形藩20万石を領していたが、前会津藩主・加藤明成が圧政を行ったことにより領地を返上、正之が23万石で会津に入った。正之の死後、松平に復姓、幕末に至る。

譜代大名

 徳川氏に古くから仕えてきた大名。与えられた知行は少なく10万石前後のものが多いが(最大でも彦根・井伊家の35万石)、特別に任じられる大老、常設の老中若年寄ら幕閣は外様大名から選ばれることはなく親藩・譜代の大名から選ばれた。また、譜代大名の多くは徳川氏の本拠である江戸を中心に多く配された。

外様大名

 [[関ヶ原の戦い]を前後に家康に臣従・味方した豊臣家恩顧の大名や家康と対峙して敗れた同格の大名が大半である。 彼らの多くは江戸から遠隔後に配され、幕府から監視されるとともに幕命により土木事業を命じられることが多く、財政的にも破綻寸前に追い込まれていた。


関連

お上・・・日本での政府側の大昔のあだ名、徳川政権に対し呼ばれる。

徳川家・・・歴代将軍の一覧はこちらを参照


公儀(こうぎ)・・・江戸幕府のみならず、鎌倉、室町時代の幕府を呼ぶときの名称 例 公儀隠密

公辺(おおやけ)・・・江戸幕府のみならず、鎌倉、室町時代の幕府を呼ぶときの名称

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