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概要

 フランク・フレッチャーなる人物は著名な人物が同姓同名で2名存在( 親子ではないためジュニアもつかない、ただしミドルネームは異なる )しており、いずれもアメリカ海軍軍人

  • フランク・F・フレッチャー

 フルネームはフランク・フライデー・フレッチャー。1855年にアイオワ州で生まれた。メキシコ革命に関連する戦闘で勲章を得る。大西洋艦隊の最高司令官として、第一次世界大戦まで軍に所属した。

 最終階級は大将第二次世界大戦時に大量建造されたフレッチャー級駆逐艦は、彼にちなんで命名された。

 また、同大戦で活躍したフランク・J・フレッチャー提督の伯父でもある。1928年死去。

  • フランク・J・フレッチャー

 フルネームはフランク・ジャック・フレッチャー。1885年にアイオワ州で生まれた。太平洋戦争において日本海軍と戦った名将であり、史上初の空母同士の戦い珊瑚海海戦を指揮した人物としても知られる。

 最終階級は大将。上記のフランク・F・フレッチャー提督のである。「ブラック・ジャック」というあだ名があった。1973年死去。

 本項では、主にフランク・J・フレッチャーについて取り扱う。

誕生から第一次世界大戦まで

 1885年にアイオワ州マーシャルタウンで生まれた。1906年に海軍兵学校を卒業し、1908年に海軍少尉に任官。2年間の海上勤務を皮切りに、サンフランシスコワシントンの海軍工廠、海軍省人事局などで勤務した。伯父の副官を務めたこともある。

 第一次世界大戦中は、戦艦の砲術士官を務めた他、哨戒艇駆逐艦艦長として船団護衛に従事し、勲章も授与されている。

 第一次世界大戦終結後は、駆逐艦や巡洋艦の艦長といった艦隊勤務に加え、1930年に海軍戦争大学の上級コースを修了した後は、海軍長官の補佐官を務めたりした。その後も戦艦ニューメキシコ艦長、海軍省人事局次長などを経て、太平洋戦争開戦時には少将として巡洋艦戦隊司令官の職にあった。

第二次世界大戦( 太平洋戦争 )

 1941年12月の日本海軍による真珠湾攻撃の際、フレッチャー提督の率いる重巡洋艦ミネアポリス」を中心とした艦隊はハワイ南方で行動しており、奇襲の難を逃れている( 奇襲を行った日本海軍の機動部隊はハワイ北方に展開していた )。1941年の大晦日、フレッチャー提督は空母「ヨークタウン」を旗艦とする空母機動部隊の指揮官となった。

 フレッチャー提督はアメリカ海軍機動部隊の指揮官として、珊瑚海海戦ミッドウェー海戦第二次ソロモン海戦といった、太平洋戦争の序盤から中盤における機動部隊同士の海戦に総指揮官として参加した。

 1942年には中将に昇進している。1943年以降は太平洋戦争において激戦区域ではなかった北太平洋方面の司令官となった為、それ以降大きな作戦に参加することなく終戦を迎えた( 一説には、当時合衆国艦隊司令長官及び海軍作戦部長であったアーネスト・キング提督と折り合いが悪かった為に主要な作戦から外された、とも言われる )。1947年に大将に昇進、退役した。

全戦全勝?

 フランク・J・フレッチャー提督は、他の連合指揮官( 例えば、太平洋艦隊司令長官であったニミッツ提督、猛将ハルゼー提督、智将スプルーアンス提督、戦後にGHQ最高司令官として君臨した陸軍マッカーサー将軍など)に比べると、日本での知名度に劣る感は否めないものの、彼が太平洋戦争で果たした役割は非常に大きいとされる。

 例えば珊瑚海海戦で自ら指揮する艦隊の大型空母「レキシントン」を撃沈され、旗艦である空母「ヨークタウン」も中破させられたが、日本海軍の軽空母祥鳳」を撃沈し、空母「翔鶴」を撃破、更に艦載機とその搭乗員に消耗を強いて、日本軍のポートモレスビー攻略を阻止することには成功した。戦術的には敗北に等しかったが、戦略的にはそれまで快進撃の続いていた日本軍の作戦を挫いた、最初の勝利であった。また、続くミッドウェー海戦に先立って、日本海軍機動部隊の6隻のうち2隻の大型空母を参加不能にした点も、重要な戦略的勝利であると言える。

 またミッドウェー海戦についても、彼が乗務する「ヨークタウン」が撃沈されたことと、その後の指揮を委ねられたスプルーアンス提督の活躍に目が行きがちだが、フレッチャー提督の艦隊、そしてミッドウェー基地航空隊との共同戦果による勝利であることは、忘れてはいけない。

 第二次ソロモン海戦は、日本海軍の主力空母2隻は無傷のままで完勝とは言えない結果に終わり、また海戦後に潜水艦の攻撃で空母「ワスプ」が沈没、旗艦の空母「サラトガ」が損傷するなど、戦術的には大きな損害を受けた。だが、日本軍の輸送作戦を阻止し、また日本海軍にとって貴重な空母を1隻撃沈しており、戦略的には勝利であったと言える。

 このように、フレッチャー提督は日本海軍を相手にした重要な戦いで、戦術的には苦杯をなめたことが多々あったものの、戦略的に全戦全勝と評価しても過言ではない結果を残している。しかも、それらは日米の国力差が戦力に反映されてくる戦争の中盤から終盤にかけてではなく、戦力が拮抗している、あるいは日本側が有利だった頃の成果なのである。

 太平洋戦争序盤におけるフレッチャー提督の戦略的勝利が、後の太平洋の動向を決定づけたと言えるのではなかろうか、と編集者は考えている。

 なお、戦術的に見ても、彼が撃沈した日本の空母は共同戦果を含めて6隻(「祥鳳」、「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」、「龍驤」 )と、決して少なくは無い。むしろ、対決した日本の空母は翔鶴型の2隻以外は全て撃沈している、とも言える。

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