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独ソ戦の編集履歴

2017-01-01 11:09:47 バージョン

独ソ戦

どくそせん

第二次大戦におけるドイツとソ連の戦い。数千万人規模の死者を出した。

独ソ戦とは?

独ソ戦(どくそせん)は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてドイツを中心とする枢軸国ソビエト連邦ソ連)との間で戦われた戦争を指す。ソ連での呼称は大祖国戦争。

ナチズム共産主義という相容れない2つのイデオロギーが真っ向から衝突したこの戦争は、戦闘員・民間人合わせて数千万単位の死者を出し、「人類史上最悪の災厄」と称された。


共産主義革命を起こしたソ連は国際連盟に身をおきつつも世界の孤児であり、ナチス党政権下のドイツは反共の急先鋒で、不倶戴天の敵同士だった。

その両国が1939年に締結したモロトフ=リッベントロップ協定(いわゆる「独ソ不可侵条約」)は世界を驚かせた。

欧州を巡る混乱の中、反共包囲網による孤立と疑心暗鬼の中にいたソ連は、イギリス・フランスによるドイツへの宥和的態度に不信感を募らせた。また、ドイツもポーランド侵略にあたり、ソ連と衝突することは避けたかった。両者の利害の一致が、不可侵条約を締結する背景となった。


ドイツ軍のポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まると、ソ連はモロトフ=リッベントロップ協定の秘密議定書に基づいて進軍し、緩衝地帯での分割を進めた。このポーランド分割によって、ドイツとソ連は国境を接することとなった。両者の開戦は時間の問題となっていた。


ヒトラーにとってロシア、ウクライナの穀倉地帯はドイツ民族に必要不可欠な東方生存圏であり、ソ連打倒は「我が闘争」執筆時からの目標だった。ドイツと交戦中のイギリスはソ連とアメリカの参戦をあてにしていたため、ヒトラーはソ連を打倒すればイギリスが講和に応じるのではないかと考えた。


1941年6月22日3時15分、ドイツ軍はソ連を奇襲攻撃した(バルバロッサ作戦)。

イギリス、フランスとの開戦は両国のポーランドとの同盟関係から結果的に始まったものだが、対ソ戦はスラブ民族やアジア人を劣等民族と位置づけるナチスの思想上、避けられないものであった。このため独ソ戦は他の戦線と異なり、存亡を賭けた熾烈な戦いとなった。

各国から反共産主義者が義勇兵としてドイツ軍に加わった。ロシア人反共産主義者もロシア国民解放軍ロシア解放軍として同胞と戦った。


開戦当初、反ソ感情が強いバルト三国や、共産党によるロシア化政策に苦しんできたウクライナの一部の住民は、ドイツ陸軍を当初「共産主義ロシアの圧政からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり、共産主義者やユダヤ人を引き渡すなど、自ら進んでドイツの支配に協力した。

しかし、スラブ民族の奴隷化を目論む過酷な占領政策は、親独的な地域住民を対独パルチザンに変えてしまった。パルチザン狩りにより多くの住民が虐殺された。

赤軍が攻勢に出ると、対独協力への報復として殺戮・略奪・追放(シベリア送り)が行われ、戦場となった東ヨーロッパは荒廃した。

緩衝地帯の国家が枢軸・連合のどちらかに鞍替えするといった状況の中、ドイツ東部までの地域がソビエトの支配下に置かれ、戦争は終結する。


太平洋戦争と違い地上戦が主な独ソ戦では、一度の会戦で数百万単位の兵や数千機の航空機、数千台の戦車、膨大な火砲が使用された。

ソ連はアメリカからレンドリースにより大量の車両や航空機、列車を供与された。


スターリンとヒトラーという独裁者が正面から衝突したこの戦いにおいて、ソ連兵1,128万人、ドイツ兵500万人が戦死・戦病死した。民間人も含めると、ソ連は2,000~3,000万人、ドイツは約600~1,000万人が死亡した。

ソ連の戦争死亡者は第二次世界大戦全ての交戦国の中で最も多く、ソ連兵の捕虜の半数以上が独ソ戦最初の年のもので、500万人が死亡している。

ドイツ兵捕虜300万人の内、100万人が抑留中に死亡した。


独ソ戦の経緯

1941年

6月22日、ドイツ軍がソ連領内へ侵攻開始。ソ連の航空部隊はドイツ空軍の爆撃により地上で壊滅した。


6月28日、ドイツ中央軍集団によるミンスク包囲により、赤軍西部正面軍は62万人の兵を失う。


8月5日、スモレンスクが陥落。赤軍兵士30万人がドイツ軍の捕虜となる。


9月8日、ドイツ北方軍集団とフィンランド軍によるレニングラード包囲が始まる。


ソ連は多くの工場を、ドイツ軍の手の及ばないウラルに疎開させた。一時的に生産力が低下したが、やがて安全な疎開先で大量の軍需物資が生産されることになる。


南方軍集団が担当するウクライナは、赤軍が開戦前からキエフ特別軍管区とオデッサ特別軍管区に戦力を集中していたため、進撃が遅れがちだった。

ヒトラーは中央軍集団の機甲部隊を南部に向け、南方軍集団を支援させ、ウクライナに展開していた赤軍60万人を殲滅し、キエフハリコフを占領した。これにより中央軍集団のモスクワ攻略作戦(タイフーン作戦)開始は約1ヶ月遅延し10月2日になる。


10月14日までにヴャジマブリャンスク二重包囲戦で赤軍50万人を殲滅したが、秋の長雨が到来し、ロシアの道路は泥濘と化す。10月25日のモスクワ空襲を最後にドイツ空軍は出撃不能となり、制空権はソ連に移った。

冬の到来で道路が凍結しドイツ軍の進撃は再開されるが、補給線が延び切った上、冬季装備を欠いたドイツ軍は各地で停止を余儀なくされた。モスクワまであと十数キロの地点で攻勢は頓挫した。

短期決戦の目論見は外れ、持久戦の様相を呈する。


日本で活動するリヒャルト・ゾルゲの情報により、日本軍の極東ソ連への侵攻計画は無いと知ったソ連は、10月以降、シベリアや極東の精鋭部隊をモスクワ前面に投入した。11月にはモンゴルの騎兵師団が戦線に投入されたが、戦況にほとんど影響を与えることなく壊滅した。

赤軍は12月初旬から冬季大反攻を開始し、中央軍集団をモスクワ正面から後退させた。ドイツ軍はヒトラーの死守命令によって撤退できず、ドクトリンである弾性防御を捨て、個々の集団による、寒さを凌げる集落を中心とした拠点防御により戦線崩壊を回避した。


1942年

1月18日、モスクワ前面でのドイツ軍の敗退を過大評価したスターリンは全戦線で攻勢を命じたが、兵員や補給の不足でドイツ軍を駆逐できず、イジュムバルヴェンコヴォに突出部を作るに留まり、以後クリミア以外の前線はドン川以西で膠着した。


5月12日、赤軍はハリコフを奪還するべくイジュムとバルヴェンコヴォから夏季攻勢を開始したが、ドイツ軍はこれを南側から断ち切るフレデリクス作戦を実行し、赤軍攻勢部隊は包囲されて壊滅し、南部での戦車戦力の殆どを失った。

独ソの戦力バランスが大きくドイツ軍に傾き、赤軍は東方へ撤退を続けることになったが、撤退速度は早く、前年のように包囲殲滅されることはなく、重火器の放棄も伴わず、損害はなかった。


ドイツ軍の夏季攻勢は戦争経済上の目的から、バクー油田獲得を目的としたブラウ作戦となった。

カフカスへ向かったドイツA軍集団も補給線が延び切り、嶮しい山岳地帯と赤軍の抵抗で進撃が行き詰り、グロズヌイまで60kmの地点で燃料が尽き、11月8日に撤退を開始した。


ヴォルガ川の要衝・スターリングラードを包囲したドイツB軍集団は市街戦で消耗し、11月22日、赤軍の反撃により33万人が逆包囲されてしまった。ヒトラーは徹底抗戦を命じ、空輸での補給やヘルマン・ホト上級大将による救出が試みられるが失敗した。


B軍集団の包囲で突出してしまったA軍集団にも包囲の危機が迫り、必死の撤退戦が行われた。


1943年

1月30日、ドイツ第6軍総司令官のパウルス上級大将は元帥に昇進させられ、暗に自決を迫られるが、枢軸軍の生き残り約10万人と共に投降し捕虜となる。

ブラウ作戦の失敗がドイツの同盟国に与えた影響は大きかった。

1942年を通しての莫大な被害により、ドイツ軍は東部戦線の定員を充足できなくなった。以降、人的資源に余裕のないドイツは予備兵力の殆どを投入せざるを得なくなる。


スターリングラードのドイツ軍撃滅後、赤軍は南部で攻勢に出てハリコフ、ベルゴロドクルスクを奪還したが、ハリコフとベルゴロドはドイツ軍の反攻により再び奪取された。その結果、中央軍集団と南方軍集団の間にクルスクの突出部が出来た。


7月4日、突出部を南北から挟撃するツィタデレ作戦が実施された(クルスクの戦い)。

事前情報により十分準備された赤軍の防御陣地に進撃を阻まれ、ドイツ軍の攻勢は失敗し、シチリア島への連合軍の上陸を理由に中止された。

赤軍は7月12日にオリョールを目指すクツゥーゾフ作戦、8月3日にハリコフを目指すルミャンツェフ作戦を発動し、ドイツ軍はドニエプル川西岸まで撤退した。


1944年

1月14日、赤軍がクラスノエセロ・ロプシャ攻勢を開始し、レニングラードのドイツ軍防衛線を突破。1月18日、レニングラードが包囲から解放された。

2月15日、赤軍がナルヴァ攻勢を開始。エストニアに迫る。3月にドイツ軍の反撃で攻勢は停滞する。


4月8日からの赤軍のルーマニア侵攻戦、第一次ヤッシー=キシニョフ攻勢は失敗する。


4月10日、赤軍は腐海ペレコプ地峡を渡り、ドイツ第17軍をセヴァストポリ要塞へ押し込む。

5月9日、セヴァストポリ要塞が陥落。第17軍は65,100人を失い、海路でクリミアを撤退した。


赤軍の春季攻勢によるドイツ南方軍集団と北方軍集団の後退で、中央軍集団がベラルーシに突出する形となった。

6月6日、ノルマンディーに連合軍が上陸し、ドイツ軍は二正面作戦を強いられる。


6月22日、赤軍はドイツ中央軍集団撃滅を目指す夏季攻勢、バグラチオン作戦を発動。

ドイツ軍では突出部を南から切断してくると予想していたが、赤軍は戦線中央に120kmにわたる破滅的な突破口を開け、平押しに押し潰してきた。中央軍集団は38個師団のうち28個師団を失い壊滅し、赤軍は7月30日、ワルシャワ東方10kmまで達したところで補給の限界に達し、停止した。これにより独ソ戦の趨勢は決した。


8月20日からの第二次ヤッシー=キシニョフ攻勢が成功。ルーマニアは政変により枢軸側から脱落した。


9月9日にブルガリア、9月19日にフィンランドが枢軸側から脱落した。


10月29日、赤軍がハンガリーへの侵攻を開始。

ハンガリーが降伏しようとしたため、10月16日、ドイツはファシズム政党矢十字党による傀儡政権を立てた(パンツァーファウスト作戦)。


1945年

2月13日、首都ブダペストが陥落し、ハンガリーのほぼ全土が赤軍の支配下となった。

ドイツ軍は3月6日からハンガリーの油田奪回を目指し、バラトン湖周辺で赤軍を攻撃するが(春の目覚め作戦)、事前に察知されていたため失敗し、オーストリアへ敗走する。


4月16日、赤軍のベルリン総攻撃が開始される。

4月30日、ヒトラーが自殺。5月2日、ベルリンは陥落した。

カール・デーニッツ元帥のフレンスブルク政府は降伏を決断し、全権委任したアルフレート・ヨードルランス(フランス)の連合軍最高司令官アイゼンハワーの司令部に派遣される。

5月7日、発効を5月9日零時として降伏文書の調印が行われた。


5月8日午後11時からはベルリン市内のカールスホルストで降伏文書の批准式が行われ、連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥とアーサー・テッダー元帥、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥が降伏文書に批准した(調印時間はベルリン時間で5月9日0時15分、ロンドン時間で5月8日23時15分、モスクワ時間で5月9日2時15分)。


ドイツ中央軍集団の残存兵は降伏文書批准後もプラハで抵抗を続け、5月11日、赤軍とアメリカ軍に包囲され撃破された。独ソ戦すべての戦闘が終結した。


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戦闘機や兵器の絵が主流だが、場外乱闘閣下これくしょん)している絵も。

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