概要
久々に統一された政権であったが、宋や女真など異境の大国に圧迫される日々が続いた。文官統治に陰りが見えた1170年(明宗元年)に武官の鄭仲夫が反乱を起こして武臣政権が成立。100年の統治を行うが、1231年からモンゴル帝国に侵攻を受け、以前から内紛で打撃を受けていた朝鮮半島は混乱の巷と化した。この武臣政権の物語は韓流ドラマにもなっている。
1270年には文官勢力が勢いを取り戻し、高麗はモンゴル(元朝)の支配下に置かれることとなり、属国化への道を辿った。
ただし、皇太子をモンゴル宮廷に仕官させた後に皇女を后として与えられるなど、滅ぼされた王朝に比べると優遇はされており、世界帝国を相手にした交易で文化・国力は回復の兆しを見せた…が、元への忠誠を示すために日本へ攻め込んだ元寇の失敗や、中国で起きた紅巾の乱、倭寇、そして宗主国モンゴルの弱体化など不運が続いて高麗の国運は停滞。
1392年に最後の指導者だった恭譲王が李成桂に滅ぼされた際、王族が皆殺しの憂き目を見て高麗は474年の歴史に幕を引いた。
高度な文化
高麗の文化を語るに欠かせないのが仏教の存在で、『訓要十條』と言う初代国王の出した掟には仏教への敬意が説かれており、僧侶や学者を保護したため学問だけでなく仏教美術や寺院建築など文化や技術は進歩した(李氏朝鮮の政策で壊滅したと言われる)。
また、青磁器や仏画など贅沢品が好まれた時代でもあり、これらは貴重な収入源や他国への土産物として重宝され、我が国にも130点が渡来している。
騎馬民族の影響で牧場が増え、家畜の肉を食べる習慣も根付いた。
他国との関係
- アラビア:首都である開城に何度かアッバース朝の使者が訪問したり、イスラム商人が出入りしていた記録がある。Koreaの由来は高麗をハングルで発音するとコリョになるのを、アラビア人がコリアと言ったことだという説が有力。
- モンゴル:使者を殺されたことを怒ったオゴタイ・ハーンによる侵攻を1231年に受けて以来、1273年(三別抄の滅亡)に至るまで戦う間柄になった。しかし、本土では1259年4月に王子を入朝させるなど親モンゴル路線を採用。その主導者だった忠烈王は父の元宗王までの反モンゴル路線を一転、自らが進んで日本侵攻(※1)を提言するほどの蜜月時代(※2)を築き、それは恭愍王による断交が行われるまでの長期に及んだ。
(※1)この史実と、海底から見つかった船は丈夫なものだったことで、日本侵攻に使われた船を手抜きしたという俗説は誤りと言われている。
(※2)自らが幼少期を過ごしたモンゴルの服装や髪形を導入した。
- 日本:混乱期に刀伊の入寇があり、緊迫した関係になったこともあるが貿易は行っていた。蒙古襲来の時に軍事組織・三別抄が反モンゴルの旗印を掲げたが、鎌倉幕府と朝廷は後難を恐れてか無視してしまう。クビライの娘婿になっていた忠烈王主導の日本遠征(※1)が行われ、殺戮や略奪などで大打撃を受けた日本の北条時宗は高麗を敵(※2)と見做して反撃・逆侵攻を試みるが果たせずに死去。
(※1)被害をこうむった武士や漁民が報復と捕虜奪還のために海賊化したものが倭寇の始まりである。
(※2)この報復として、怒った鎌倉幕府の指導者らによって高麗軍の捕虜はモンゴル兵とともに全員斬殺された。
高麗にまつわる作品
―アンゴルモア元寇合戦記:日本をつけ狙う敵役として高麗が登場。軽薄な悪人ないしは傀儡のように捉えられれがちだった王諶(忠烈王)が、高麗の栄光を取り戻すためにクビライに接近する様子が描かれるなど、高麗視点からも描かれる描写がある。
- 井沢元彦:高麗と蒙古襲来について著書多し。蒙古が絶対悪で高麗が隷従した悲劇的な存在と言う概念を覆す。
- 杉山正明:モンゴル帝国中心の研究で、高麗関連も多い。高麗側の謀略や戦略に関しても客観視された内容が多い。
- 渡部昇一:元寇で高麗が先導を務めたことを多く記すも、先述した「風濤」の小説や高度な文明国でありながら翻弄された歴史を見てか、やや同情的な部分もある。
- 大河ドラマ:2001年の「北条時宗」で高麗・蒙古軍との戦いを描く。
- コーエーの歴史ゲーム:蒼き狼と白き牝鹿。蒼き狼と白き牝鹿Ⅳでプレイヤー勢力に。高麗軍の顔ぶれは信長の野望の一部作品でもエディット用に登場する。
- 奇皇后:高麗から降嫁したモンゴル帝国最後の皇后。ないしはその一生を描いたドラマ。