ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
80系の編集履歴2018/05/12 14:41:58 版
編集者:たづ
編集内容:CTSの事項追加

80系

はちじゅっけい

鉄道車両の系列の一つ。ほぼ国鉄80系電車に関するイラストにつけられるタグとなっている。

※なお同様に国鉄史上のエポックメーカーとなった気動車についてはこちら→キハ80系

国鉄 80系電車

概要

日本国有鉄道(国鉄)が1949年に新製開始した長距離列車用の電車形式群の総称(正式の系列名ではなく、整理上・趣味上の通称)。

東海道本線東京口の長距離列車を電車化することを目的として設計された。

1950年に登場した2次車以降では正面2枚窓のいわゆる「湘南顔」が採用され、国鉄のみならず国内の私鉄各社でも類似した前面形状の車両が多数ある。

1983年飯田線を最後に引退、全廃。

かつて大阪市の交通科学博物館に先頭車と中間電動車の各トップナンバーが静態保存されていたが、閉館に伴い一時別の場所で保存の後、現在は無事京都鉄道博物館に展示されている。だが、一世を風靡した「湘南顔」の車両はすべて解体され現存しない。

功績

それまで電車は都市部の比較的短距離を走る車両と位置付けられていたが、この車両の成功により、日本は新幹線を頂点とする、世界でも類を見ない電車、気動車王国となった。

しかし、当初は反対派の猛烈な抗議があった。それもそのはず、当時の電車は揺れが酷く、居住性で客車列車に敵わなかったと言われていたのである。

しかし、東京駅ホームは既にパンク状態で、客車列車のままではもう一本ホームを作らなければならないという差し迫った課題があり、折り返しにかかる時間が短い電車が漸く採用された。

乗り心地について

居住性

80系のシートピッチなどは拡大された200番台以降のグループでようやくオハ35系以来のもので、背ずりにモケットのついたスハ42系とほぼ同じである(初期車はオハ31・60系鋼体化改造車オハ35系の中間に位置する1400mm)。さすがにツリカケ式の旧型電車ゆえ騒音の車内への侵入は客車より大きかった。

振動特性

電車が、というより当時までの日本国鉄の台車の揺れ枕リンクはおしなべて短く、電車だろうが客車だろうが不快な揺れをなかなか解消できない構造が数十年存置された。

ようやく戦後に私鉄や旧満鉄などの流儀も入り、リンクが平均的な長さ(500mm程度)となり、動揺の特性が改善された。動力台車は鉄鋼の入手状況も関連したが一体の鋳物で側梁を作るようになったことも、ヒビリ振動の除去に寄与した。

抜本的な改善点

空調である。客車時代の長大編成列車の泣き所が冬季暖房だった。

機関車から供給される蒸気による暖房だったため、編成後端では暖房の効きが悪いことがしょっちゅうあり、電化されて機関車が電気機関車になると蒸気の供給元がなくなったため、わざわざ「暖房車」と呼ばれる蒸気ボイラー車を連結したり、直接電気機関車に蒸気ボイラーを搭載したりしなければならないという半ば本末転倒の事態に陥った。

直流電化区間限定の電気暖房もあったが(シート下に対地電圧1500Vのままシーズ線を引き回し;後年の交流電化区間向けの交流1500V仕様(熱源電圧は変圧し200V)とは異なる)、電力事情から全面的普及とはいかなかった(まして機関車の2基のパンタグラフからの集電では、停車中の架線の消耗が無視できない)。

対する80系は各動力車のパンタグラフから個々に熱源分も取っていくので集電量も多寡がしれた。

また夏場101系登場後旧型車にも扇風機を装備する改造が施されていった。客車列車にも扇風機は装備されたが、車軸発電機を使ってバッテリー経由で給電していたため、長時間停車などでしばしば止まってしまう弱点があるのに対し、電車用のそれは基本的に止まらないという強みをもつ。

また特急の二等車・一等車・食堂車などは冷房装置を搭載していたが、その為の発電セットを搭載し、結果編成重量をさらに重くして客車の不利を助長する結果になった。

乗客の反応

当初こそトラブルが多発して「遭難電車」などと揶揄されたが、初期トラブルが克服されると、むしろ利用者は好んで電車列車に乗るようになった。静粛性よりもその他の要件と、なにより速達性が尊ばれたのである。

80系最後の定期優等列車運用となった急行「佐渡」では、すでに165系の新製配置までのつなぎ、という褪色間隠せない時期だったにもかかわらず、客車利用の「佐渡」より80系の「佐渡」の方が利用率が高かった。

反対派は誰だった?

先ず、横槍を入れたのは、終戦直後の日本(と国鉄)を牛耳っていたGHQとその鉄道監督部門であるCTS(Civil Transportation Section=民間運輸局)であった。

GHQで主力を占めていたアメリカの場合、長距離電車は衰退の方向に向かっていたため、その有効性に疑問を呈したのである。

この頃は、国鉄が何かを「新造」することに対してCTSが難色を示すことが多く、この80系も例外ではなかった。

C6260系客車はCTS自身が水を向けたのであるが(60系はそれまで米軍人用優等車の調達にばかり躍起になっていたCTS自身の監督責任が問われうる「木造車が老朽化しており極めて危険である」と国鉄が問題提起し説き伏せた結果出来ている)、そうではなく、世界的にもあまり前例の無い全く新しいタイプの電車を(戦争によって国土が荒廃状態であるにも関わらず)日本が量産することに大きな懸念を抱いていたのである。鉄道出身のCTS将校の中には、「(米国製ディーゼル機関車を買わせて)客車列車で運転すれば良い」と端から理解するつもりのないものも居た。電化計画に消極的であったのもそのためである。

そのため、当初は「横須賀線と同じくらいの区間の運転だが、大船で曲がらずにそのまま西進するだけだ」と説得している。「好評に付き折り返し駅がないので・・・」というようなレトリックで運転距離を伸ばせるだけ伸ばし、GHQ/CTSが存在している頃の内に沼津あたりまで走り、既成事実化させたのだった。

国鉄の労働組合もまた激しく反対した。

長距離列車を電車で置き換える→特に折り返し駅での所要人員が減り、人員カットに繋がる。

という理由であった。

だが、結果的に利用者の需要とは真逆を行ったこれらの労働争議は1970年代後半に破綻し、最終的に1987年国鉄分割民営化JR化に至ることになる。

一方、客車列車も近代化すべく初代ブルートレインこと20系客車が投入されるが、皮肉にもそれにふんだんに使われたのは101系電車の開発で培われた軽量固定編成電車のノウハウであった。

そしてこれ以降、客車列車の花形は夜行列車が中心となった(しかもこのテリトリーすら後にに侵食されている)。

大阪市交通局(現・OsakaMetro) 80系電車

大阪市営地下鉄時代に開業した今里筋線用の車両として4両編成17本が製造された。

車体デザインは長堀鶴見緑地線用の70系をベースとしている。

今里筋線は開業時からホームドアを設置しているため、当時の70系とは違い天井部にもラインカラーのオレンジを配した。

関連記事

80系の編集履歴2018/05/12 14:41:58 版
編集者:たづ
編集内容:CTSの事項追加
80系の編集履歴2018/05/12 14:41:58 版