80系
はちじゅっけい
国鉄 80系電車
乗り心地について
居住性
80系のシートピッチなどは拡大された200番台以降のグループでようやくオハ35系以来のもので、背ずりにモケットのついたスハ42系とほぼ同じである(初期車はオハ31・60系鋼体化改造車とオハ35系の中間に位置する1400mm)。さすがにツリカケ式の旧型電車ゆえ騒音の車内への侵入は客車より大きかった。
振動特性
電車が、というより当時までの日本国鉄の台車の揺れ枕リンクはおしなべて短く、電車だろうが客車だろうが不快な揺れをなかなか解消できない構造が数十年存置された。
ようやく戦後に私鉄や旧満鉄などの流儀も入り、リンクが平均的な長さ(500mm程度)となり、動揺の特性が改善された。動力台車は鉄鋼の入手状況も関連したが一体の鋳物で側梁を作るようになったことも、ヒビリ振動の除去に寄与した。
抜本的な改善点
空調である。客車時代の長大編成列車の泣き所が冬季の暖房だった。
機関車から供給される蒸気による暖房だったため、編成後端では暖房の効きが悪いことがしょっちゅうあり、電化されて機関車が電気機関車になると蒸気の供給元がなくなったため、わざわざ「暖房車」と呼ばれる蒸気ボイラー車を連結したり、直接電気機関車に蒸気ボイラーを搭載したりしなければならないという半ば本末転倒の事態に陥った。
直流電化区間限定の電気暖房もあったが(シート下に対地電圧1500Vのままシーズ線を引き回し;後年の交流電化区間向けの交流1500V仕様(熱源電圧は変圧し200V)とは異なる)、電力事情から全面的普及とはいかなかった(まして機関車の2基のパンタグラフからの集電では、停車中の架線の消耗が無視できない)。
対する80系は各動力車のパンタグラフから個々に熱源分も取っていくので集電量も多寡がしれた。
また夏場も101系登場後旧型車にも扇風機を装備する改造が施されていった。客車列車にも扇風機は装備されたが、車軸発電機を使ってバッテリー経由で給電していたため、長時間停車などでしばしば止まってしまう弱点があるのに対し、電車用のそれは基本的に止まらないという強みをもつ。
また特急の二等車・一等車・食堂車などは冷房装置を搭載していたが、その為の発電セットを搭載し、結果編成重量をさらに重くして客車の不利を助長する結果になった。
乗客の反応
当初こそトラブルが多発して「遭難電車」などと揶揄されたが、初期トラブルが克服されると、むしろ利用者は好んで電車列車に乗るようになった。静粛性よりもその他の要件と、なにより速達性が尊ばれたのである。
80系最後の定期優等列車運用となった急行「佐渡」では、すでに165系の新製配置までのつなぎ、という褪色間隠せない時期だったにもかかわらず、客車利用の「佐渡」より80系の「佐渡」の方が利用率が高かった。
反対派は誰だった?
先ず、横槍を入れたのは、終戦直後の日本(と国鉄)を牛耳っていたGHQとその鉄道監督部門であるCTS(Civil Transportation Section=民間運輸局)であった。
GHQで主力を占めていたアメリカの場合、長距離電車は衰退の方向に向かっていたため、その有効性に疑問を呈したのである。
この頃は、国鉄が何かを「新造」することに対してCTSが難色を示すことが多く、この80系も例外ではなかった。
C62や60系客車はCTS自身が水を向けたのであるが(60系はそれまで米軍人用優等車の調達にばかり躍起になっていたCTS自身の監督責任が問われうる「木造車が老朽化しており極めて危険である」と国鉄が問題提起し説き伏せた結果出来ている)、そうではなく、世界的にもあまり前例の無い全く新しいタイプの電車を(戦争によって国土が荒廃状態であるにも関わらず)日本が量産することに大きな懸念を抱いていたのである。鉄道出身のCTS将校の中には、「(米国製ディーゼル機関車を買わせて)客車列車で運転すれば良い」と端から理解するつもりのないものも居た。電化計画に消極的であったのもそのためである。
そのため、当初は「横須賀線と同じくらいの区間の運転だが、大船で曲がらずにそのまま西進するだけだ」と説得している。「好評に付き折り返し駅がないので・・・」というようなレトリックで運転距離を伸ばせるだけ伸ばし、GHQ/CTSが存在している頃の内に沼津あたりまで走り、既成事実化させたのだった。
国鉄の労働組合員もまた激しく反対した。
長距離列車を電車で置き換える→特に折り返し駅での所要人員が減り、人員カットに繋がる。
という理由であった。
だが、結果的に利用者の需要とは真逆を行ったこれらの労働争議は1970年代後半に破綻し、最終的に1987年の国鉄分割民営化→JR化に至ることになる。
一方、客車列車も近代化すべく初代ブルートレインこと20系客車が投入されるが、皮肉にもそれにふんだんに使われたのは101系電車の開発で培われた軽量固定編成電車のノウハウであった。