ベトナム
べとなむ
概要
東南アジアのインドシナ半島東部の社会主義国家。日本語による正式名は「ベトナム社会主義共和国」。漢字表記は「越南」(「越」と略される)。英語では"Vietnam"。
pixivではAxis Powers ヘタリアのキャラ(越っちゃんを参照)やミリタリー、民族衣装などのイラストが多い。
首都は北部のハノイ。南部のホーチミンは首都に順ずる主要都市。ホーチミン市の旧名は旧南ベトナムの首都だったサイゴン。
南北に細長い国土はほとんどが温暖な熱帯地域で、ジャングルや田園風景が広がっている。
歴史的に中国文化の影響を強く受けており、都市部にはフランス文化の面影も色濃く残る(その代表例として、都市を中心に民衆の間でフランスパンが今でも多く食べられている)。
歴史
紀元前には石器文化や青銅器文化の時代があり、古くから多くの王朝が興った。歴代中華文明から支配や影響を受け、何度も反抗と独立を繰り返した。
1883年のフエ条約締結により独立を失い、カンボジア・ラオスとともにフランスの「インドシナ植民地」とされたが、第二次世界大戦時にフランス本国がナチスドイツに占領され、フランスは首都をヴィシーに移して、ここにドイツの傀儡政権が誕生し、これを受け日本軍が進駐。1940年9月23日、フランスのペタン政権との合意の下でフランス領インドシナへ進駐(仏印進駐)していた日本軍は、近々予想される連合国軍のベトナム上陸に対する危機感を募らせていた。
そのためか、ベトナム独立運動の指導者・ファン・ボイ・チャウの門下で、独立義勇軍『越南復国同盟軍』の司令官チャン・チュン・ラップは、日本軍進駐の案内役を努める傍ら、仏印軍の中にいたベトナム人兵士を寝返らせることに尽力しており、同盟軍は6000人まで膨れ上がった。
この時日本軍は、あくまで抵抗する現地のフランス軍と交戦しており、白人の支配に甘んじていた現地のベトナム人たちに大きな衝撃が与えたため、志願者が殺到していたという。
しかし、この日本軍の軍事行動にヴィシー傀儡政権が抗議し、平和的な進駐を申し入れていた日本政府は、この抗議を受けて軍を一旦撤収させる。
これにより少し前に日本軍に打ち負かされていたフランス軍が息を吹き返し、越南復国同盟軍に報復を行い、上述したラップ司令官をはじめ多くの同盟軍のベトナム人が処刑されてしまう。
この一連の出来事が原因で、後述する日本に懐疑的な独立運動家(ベトミン)が生まれることになったとされている。
日本軍は連合国軍が上陸した際に、フランス植民地軍が日本軍と共にこれを迎え撃つことへの同意を求めたが、既にヴィシー政権が連合国に降伏していたフランス軍はこれを拒否し、1945年3月9日に両軍の間で戦闘が起こり(明号作戦)、約3万の日本軍は、警察部隊も含めると9万と言われたフランス軍に勝利する。
これによって、インドシナは日本の統治下に入った。日本は連合国軍に対抗するためフランスの植民地政府を打倒し、阮朝の皇帝バオ・ダイ帝を支援し『ベトナム帝国』として独立を促した(上述した一連の出来事から、日本に対し懐疑的になっていた独立運動家からは、傀儡政権とみなす者もいた)。
しかし、この時ベトナムでは天候不順による凶作に加え、アメリカ軍の空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍の食糧徴発によって、トンキンを中心に大飢饉が発生した。ホー・チ・ミン率いるベトミンはこれをベトナム帝国を攻撃するために利用し「200万人が餓死した」と宣伝工作を行って独立運動の主導権を握る。
ベトミンは日本の降伏文書が調印されたことを受け9月2日に「ベトナム民主共和国」の独立を宣言。旧植民地の再支配を謀るフランス軍とのインドシナ戦争(ベトナム独立戦争)となり、ベトナムはバオ・ダイを元首とするフランスの傀儡国家である「ベトナム国」と社会主義のベトナム民主共和国との分断国家となった。
ベトナム国は1955年のクーデターにより共和制の資本主義国家のベトナム共和国(南ベトナム)となり、南ベトナムはアメリカ合衆国を後ろ盾とした。
アメリカは共産主義政権であるベトナム民主共和国の存在を認めず、アメリカ軍がベトナム民主共和国に侵攻してベトナム戦争が発生。戦争の結果アメリカ軍は追い出され、後ろ盾を失った南ベトナムにベトナム民主共和国が侵攻し、「ベトナム社会主義共和国」としてようやく南北統一された。
しかし、ベトナム戦争終結後も中国・カンボジアとの戦争が続き、特に対カンボジア戦勝後カンボジアを占領したことは、ベトナムの戦後復興の重い足枷となった。こうしてベトナムは約100年近くも戦争に明け暮れることになってしまい、戦場として荒廃した国土の復興が大きな課題となった。
ベトナムは「三つの帝国※」に打ち勝った稀有な国で、『帝国主義者の墓場』とも呼ばれている。
【仏帝(ベトナム独立戦争)→米帝(ベトナム戦争)→華帝(中越戦争)の順で勝利】
※仏印進駐後における日本支援の下の独立建国に懐疑的な者の中には、抵抗運動を行っていた者もおり、そうした面から日帝(大日本帝国)を加えて「四つの帝国」とする意見もある。
1980年代に戦後復興のためドイモイ政策により市場経済を導入。その後は過去に戦った各国との和解が進み、近年は日本や台湾、韓国などの企業の進出が著しく、高度経済成長が始まっている。
政治
現在も社会主義国であり、ベトナム共産党以外の政党を認めない一党独裁政治となっている。
ただし、建国期から権力が個人に集中しない集団指導体制となっており、4人の指導者によって共同運営されている。まずベトナム共産党の最高職である「党中央委員会書記長」が実質的に国のトップであり、国家元首で他国における大統領である「国家主席」がナンバー2、総理大臣にあたる「首相」が3番手、そして4番目の「国会議長」に権限を分散させているため、個人独裁がない構造になっている。ちなみに多くの場合は書記長と国会議長を北部、国家主席と首相を中部・南部のベトナム人が務める。
1986年に中国の改革開放によく似たドイモイ(刷新)政策が実施され、市場メカニズムや対外開放政策が導入され、市場経済を容認した。現在でも共産主義社会の実現を掲げているが、冷戦崩壊後の社会主義圏の崩壊に伴い、ベトナムと直接銃火も交えてきた遺恨がある諸国によって形成されている、かつての反共政治同盟ASEAN(東南アジア諸国連合)に1995年に加盟して立場の安定化をはかった。
2013年に憲法改正も実施されたが、この際、国民の意見聴取も行われ、 国号を「ベトナム社会主義共和国」から「社会主義」を外して「ベトナム民主共和国」へ戻すことや憲法改正の際の国民投票の導入などの一部民主化を進めるような意見もでて、検討されたという。
しかし、結局は国民の諸権利がいくつか追加されただけにとどまり、共産党が国家と社会の指導勢力であり、その神聖不可侵性を謳っている根本的な部分が変更されることはなかった。そのため、現在でも民主化運動は弾圧の対象にされている。