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徳川忠長の編集履歴

2019-05-18 11:59:11 バージョン

徳川忠長

とくがわただなが

徳川忠長とは、江戸時代前期の親藩大名。3代将軍・徳川家光の弟に当たり、「駿河大納言」の通称でも知られる。容姿や才覚に優れていたとされ、幼少期には将軍後継として目された事もあった。(1606年-1634年)

概要

江戸時代前期の親藩大名(徳川家の近親が封ぜられた藩を指す)で、存命中は甲府藩主、駿府藩主を歴任。徳川家康徳川秀忠三男徳川家光にそれぞれあたる。

幼少時は才気に優れ、両親の寵愛を受けていた事から将軍後継の最有力とも目された事もあったが、やがて兄・家光の後継が確立すると、その家臣たるべき自身の立場への自覚に対する欠如から、次第に家光、そして父・秀忠とも折り合いが悪くなり、秀忠の薨去後には乱行の数々などを理由に改易・逼塞に処され、遂には自害に追い込まれるという運命を辿った。


忠長にとって最も不運だったのは江戸幕府の成立と「元和偃武」(大坂の陣終結に伴う、戦乱状態の終結と幕府による全国支配の確立)により、それまでのような己の才覚こそがものを言う「実力本位の時代」から、長幼の序などを重んじる「秩序第一の時代」へと移行した事であろう。父・秀忠がそうであったように、世が世であれば兄を差し置いて嫡男となり得ていたかも知れない忠長であったが、各種法令の発布と順守によって社会秩序を確立させ、こうした時代の変化を積極的に推し進めたのは、皮肉にも忠長を可愛がっていた父・秀忠その人だったのである。

また兄・家光が将軍後継の座を確立し、また父・秀忠も元和年間に入って親政を始めるようになるなど、両人やその周辺の者達もそれぞれの立場の変化に伴いスタンスを変化させていったが、忠長はそうした「立場の変化」に最後まで順応できず、その事もまた兄や父との不仲、そして自身の乱行を招く一因となったと言える。


同母兄・家光とは結果的に生涯に亘って反目しあう事となったが、忠長に対する家光の対応は意外にもそこまで険悪なものではなかったようである。確かに忠長の不行状ぶりを知らされる度に怒りや不快感を示してはいたものの、秀忠が忠長に対して即座に勘当に及んだのに対し、家光は「2人しかいない兄弟だから」と土井利勝らを遣わして更生を促したり、甲府への蟄居が命じられた後も一旦は駿府への帰還を認めたりもしたという。

また異母弟に当たる保科正之(後の会津松平家初代)に対しては殊の外可愛がっていたようで(この点は兄・家光も同じであった)、両者が対面した折には忠長が葵紋の入った家康の遺品を与えたり、松平への復姓を薦めたりしたと「会津松平家譜」には記されている。


生涯

幼年期

慶長11年(1606年)、江戸幕府第2代征夷大将軍徳川秀忠三男(本来、同母兄・家光の他にも異母兄として長丸がいたが、忠長誕生の時点で早逝していた)として江戸城西の丸にて生まれる。幼名は国千代国松)。誕生日については諸説あるが、現在では6月1日が有力と考えられている。

・秀忠や崇源院)は、病弱吃音があった竹千代(のちの徳川家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国千代(国松)を寵愛していたとされ、それらに起因する竹千代擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったと伝わる。

この争いは後に、竹千代乳母のお福(春日局)による祖父家康への直訴を経て、組織安定のため長幼の序を重んじた家康の裁断により、竹千代が後継として明確に定められた事で決着を見た。


もっとも、母・江による国千代への偏愛ぶり(と、竹千代への粗略な扱い)、そしてお福による直訴と家康の裁定など、家光と忠長の間で起こった将軍後継問題にまつわる様々な逸話については、あくまで巷説の域を出ないものであり、同時代の信頼できる一次史料による裏付けがなされた話でないという事に留意されたい。

同様に広く伝わっている逸話の一つとして、乳母であるお福が竹千代を養育したのに対し、江は自らの手元で国千代を育てたとされるというものがあるが、こちらも実際には国千代にも乳母として朝倉局土井利勝朝倉宣正)が附けられていたという。


駿河大納言

当初は父・秀忠より松平姓を与えられており、立場上は庶子に準じる扱いであった。徳川姓が許されていた叔父徳川義直徳川頼宣には、宗家に後継が絶えた際に将軍職を継承することが定められていたが、この時点の忠長はそうした立場からも除外されていた。元和6年(1620年9月に元服し、金地院崇伝の選定により諱を忠長とする。


元和2年あるいは4年(1616年/1618年)の9月、甲府23万8000石(後に信濃(現在の長野県)の小諸藩5万石も併合する形で28万8000石に加増)を拝領し、甲府藩主となる。とはいえ、元服前かつ幼少の国千代が実際に領国へ入部する事はなく、実際の政務は朝倉宣正や、郡内地方を治めていた鳥居成次ら附家老を中心とした家臣団や代官衆により行われた。

さらに寛永元年(1624年7月には小諸藩領に代わって駿河、そして当時掛川藩領であった遠江の一部(掛川藩領)を加増され、駿遠甲の計55万石を知行するに至った。55万石の知行は所謂御三家にも匹敵する規模であり、また駿府は徳川家にとっても政治的にも歴史的にも重要な意味合いを持つ地でもあった事から、将軍後継から外れたとはいえ格別の待遇であった事が窺える。


官位の面においても、元和9年(1623年)7月、家光の将軍宣下に際し権中納言に任官され(ちなみに同年11月7日織田信良の娘・昌子松孝院)と婚姻)、寛永3年(1626年)には権大納言に昇進、後水尾天皇の二条城行幸の上洛にも随行している。こちらも御三家のうち尾張家、紀伊家に準じる扱いであった。

駿府を領し権大納言に任官された事で、この頃より隣国の諸大名等からは「駿河大納言」と称され、次第に持て囃されるようにもなっていく。


乱行と父兄との確執

しかしそうした立場の向上とは裏腹に、次第に忠長には問題ある振る舞いが目立つようになっていく。

その萌芽は既に元服前から表出していた。元和4年(1618年10月9日、国千代は父を喜ばせるべく、自らが撃ち取ったで作られた汁物を父・秀忠の膳に供して最初は喜ばせたものの、その鴨が西之御丸の堀で撃ち取ったものである事を知らされるや、秀忠は一転して怒りを露わにし、を投げ捨ててその場を退出するに至っている。

国千代を可愛がっていた秀忠をして、ここまでの反応を示したその背景には、江戸城の西の丸が将軍後継の住まう場と定められていた事、そして将軍家臣たるべき立場の国千代が西の丸に鉄砲を撃ち込む事が、悪意は無くともいずれは将軍となる竹千代への反逆に等しい振る舞いであった事などが挙げられる。この時は幼年であった事もあり目立った処分が下される事はなかったものの、こうした自身の立場に対する自覚の欠如は、やがて元服後の様々な問題にも繋がっていく事となる。


それから時が下って、前述の駿河・遠江が加増された折、忠長は父・秀忠に対し途方もない申し出に及ぶ。曰く「忠長は将軍の実弟であるので駿府55万石では満足できない、ついては100万石を賜るか、自分を大坂城の城主にして欲しい」との事であったが、この嘆願が聞き容れられる訳も無く、呆れた秀忠からはこの一件を機に愛想を尽かされるようになっていく。また兄・家光にしても、かつて豊臣氏の本拠であった大坂城を欲する忠長に対し、謀叛の意思があるのではないかとの疑いを抱かせるには十分過ぎる出来事であった。

こうした疑いを晴らす意図もあったのか、寛永3年に秀忠と家光が上洛の折に、大井川に船橋を掛けるなどの配慮を見せている。ところが大井川への架橋は、幕府の防衛上の問題から祖父・家康の代より厳禁とされており、却って家光の不興を買う憂き目に遭ってしまう。この年には最大の庇護者とも言える母・江も亡くなり、その悲しみからか過度な飲酒に耽るようになったとも伝わる。


その後も忠長の行状は改まるどころかより深刻さを増していく一方であり、寛永7年(1630年)には領内の賤機山にてやはり厳禁とされていた猿狩りを強行、さらにその帰途には自身の乗っていた駕籠の担ぎ手を取るに足らない理由で殺害に及んだ他、翌寛永8年(1631年)になると家臣や御伽の坊主、それに女中らに対しても様々な危害を加えるようになり、忠長の理不尽な仕打ちを恐れて側近が寄り付かなくなった結果、幼い2人の子供のみが仕える有様となったという。この頃になるとこうした所業の数々は既に他の大名家の知るところともなっており、時の小倉藩主・細川忠利はこれらの行為を酒乱ではなく、発狂によるものだと推察している。

そして同年の暮れ、家臣の小浜七之助と共に鷹狩りに出かけた際に、これまた些細な理由から七之助を手打ちにした事を、彼の父親が幕府に訴え出たのが決定打となり、忠長は甲府への蟄居を命じられる事となった。前述の通り、秀忠からは一連の不行状を理由に勘当を申し付けられるなど見放されたも同然の状態で、秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが当然許される事もなかった。


不遇の最期

叔父・徳川頼宣らの働きかけや、家光の計らいなどもあって一旦は駿府へ戻る事を許された忠長であったが、その後も寛永9年(1632年)に秀忠が危篤の折に乞うた江戸入りまでは許されなかった。家光、もしくは秀忠自身の意向によるものとされる。

同年3月に秀忠が薨去するとその立場もますます厳しいものとなり、蟄居の身ながら無断で甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院を建立した件、それに熊本藩主・加藤忠広改易の際に風説を流布した件などを理由に改易とされ、半年余り後の10月20日に高崎藩主・安藤重長に預けられる形で当地への逼塞処分が下される。また、その際に朝倉宣正、鳥居成次ら附家老も、連座して改易に処された。


そして逼塞から1年余りが経った寛永10年12月6日1634年1月5日)、幕府命令により高崎の願行山大信寺にて自害、28年の生涯に幕を閉じた。実子の存在は史料上では確認されておらず、忠長の死により駿府徳川家も一代限りで断絶となった(一説には松平長頼(長七郎)なる子がいたとも伝わっているが、生母や生没年の矛盾などから否定的な見方が強い)。

は43回忌にあたる延宝3年(1675年)に、自害の場となった願行山大信寺に建立され。現在では高崎市指定史跡に指定されている他、硯箱や自害に用いた短刀、それに自筆手紙などが位牌とともに保存されている。


関連タグ

家族


  • 織田信勝(信行):忠長の大伯父(江の生母・お市の兄弟)に当たる。その利発さから兄以上に家中の信望を集めたり、後継争いに敗れて非業の死を遂げるなど、その生涯には忠長と近似した部分も見られる。
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