ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

日本プロレスの編集履歴

2021-10-02 13:11:31 バージョン

日本プロレス

にほんぷろれす

日本プロレスはかつて存在したプロレス団体。通称「日プロ」。

概要

1953年、大相撲関脇からプロレスラーに転向した力道山が後見者を得て設立した「日本プロレス協会」が母体となる。

団体として興行会社としての日本プロレス興業株式会社、業界組織としての日本プロレス協会、ライセンス発行や選手権試合の管理、認定を行う日本プロレスコミッションからなっていた。


相撲を廃業後、力道山はアメリカへ渡り、帰国後プロレス興行を始める。1954年2月に木村政彦と組みシャープ兄弟と対戦した試合はテレビ(日本テレビばかりか、何とNHKも!!)を通じて全国に中継され話題を呼ぶ。

当時、木村政彦の「国際プロレス団」や山口利夫の「全日本プロレス協会」などが存在したが、この2名を直接対決で下した力道山が著名となると、競合団体は相次いで消滅し唯一の団体となった(因みにいずれも後の国際プロレス全日本プロレスとは無関係)。


しかし力道山死去の後、豊登が日本プロレスの2代目社長となるが生来のギャンブル好きから来る数々の横領が発覚、1965年末に社長を退任、日本プロレスからも退社。

豊登は1966年にアントニオ猪木を引き抜いて10月に蔵前国技館で東京プロレス旗揚げ戦を挙行。

ところが日本プロレスによる妨害工作、テレビ中継が無いゆえの興行不振に加え、そこでも公金を私的に流用するなど経営が立ち行かず3か月で崩壊し、猪木、永源勝(後の永源遙)、高崎山三吉(魁勝司こと北沢幹之)、柴田勝久らは日本プロレスに復帰(柴田は東京プロレスからデビューした為移籍)。

同時期に経営路線の対立が元で1966年10月に取締役営業部長だった元プロレスラーの吉原功が国際プロレスを設立する。こちらはラッシャー木村、寺西勇、仙台強(のちの大剛鉄之助、東京プロレスから移籍。1974年に交通事故で右足切断の重傷により引退後は国際⇒新日本プロレスでブッカー、トレーナーに。2017年死去)、マンモス鈴木、大磯武、竹下民夫ら復帰が叶わなかった選手が移籍、豊登ものちに合流する。


昭和40年代にはジャイアント馬場アントニオ猪木の『BI砲』で人気を博し、1969年より、日本テレビにくわえて新たにNETが参入、2局放送体制となった。

人気No.1馬場の試合がNETの試合を中継できない為人気No.2の猪木・大木金太郎らを中心に据え、猪木に人気が出てきたため派閥争いが起きる。


1971年に、一部幹部に横領などの疑いがもたれ始めるとこれを憂えた馬場・猪木ら選手は、幹部に経営改善要求を突きつける。しかしそれが元で会社乗っ取りを図ったとして猪木が除名されてしまう。

その後猪木は新日本プロレスを1972年3月に創立。

1972年5月には日本テレビが実況を打ち切った。これはNETの『ワールドプロレスリング』が先述の猪木除名から生じた視聴率低迷と番組存続が危ぶまれたとして日プロに馬場の試合中継を強く要求。これを日プロが了承したことに日本テレビがブチ切れてしまったからだった。馬場は日本テレビを後ろ盾に8月に全日本プロレスを設立した。これに伴い日本テレビは『全日本プロレスリング中継』としてプロレス実況中継を再開している。

興行の二枚看板を失った日本プロレスは一気に弱体化することになり、興業で国際プロレスに負ける事になる。

そんな中”救済策”として新日本プロレスとの合併案が浮上し、坂口征二を中心に合併へ向けて一度は前進したものの、大木金太郎が「合併は猪木に乗っ取られたのと同じで絶対に認められない」と猛反対。この発言で選手の大半が大木に同調したため合併は破談・白紙となり、坂口を始めとする4選手とレフェリーを加えた5人が日本プロレスを脱退、新日本に移籍することとなった。


1973年3月、3月30日でNETの実況を終了、4月6日から新日本プロレスの中継(『ワールドプロレスリング』へ再改題)を開始すると発表すると放映権料を完全に失った。それに加え、主力選手の離脱で観客動員も激減したことによる入場料の減収により会社経営も立ち行かなくなり、NETの実況中継終了と同時に興行活動を断念する意向を示した。しかし選手会主催興行として強行するも振るわず、4月20日の『アイアンクロー・シリーズ』最終戦・群馬県吉井町体育館大会をもって興行活動を停止した。


所属選手

力道山 東富士(元:第40代横綱) 駿河海 遠藤幸吉 芳の里 大同山又道 大坪清隆(大坪飛車角)

金子武雄 土佐の花(竹村正明) 玉の川 羅生門綱五郎 吉田川 宮島富男 藤田山

渡辺貞三 比嘉敏一 大山博 長谷川丹治 平野惣一(平野岩吉) 本間和夫

木戸時夫(木戸修の実兄) 輝昇 金栄珠 萬奇煥 大里巌

飯田敏光(後にプロ野球「大洋(現:横浜DeNAベイスターズ)」に入団)

緑岩(練習生)

他団体から入団

全日本プロレス協会(1950年代に山口利夫が設立。ジャイアント馬場全日本プロレスとは無関係)から移籍

吉村道明 樋口寛治(後のジョー樋口) 長沢日一 ミスター珍(出口一)


国際プロレス旗揚げメンバー

吉原功(引退し社長として旗揚げ) ヒロ・マツダ マティ鈴木

杉山恒治(後のサンダー杉山) 草津正武(草津清正、後の初代グレート草津

マンモス鈴木(レフェリーに転向) 阿部修(レフェリーに転向)

竹下民夫(レフェリー・リングアナウンサー兼任)


東京プロレス旗揚げメンバー

後に国際プロレスへ移籍

豊登 ミスター珍 木村政雄(後のラッシャー木村)田中忠治(田中政克) 長沢秀幸(長沢日一)

後に日本プロレスへ移籍(復帰)

アントニオ猪木(猪木完至)

柴田勝久(柴田勝頼の実父)

北沢幹之(後の魁勝司、デビュー時は高崎山猿吉、ほかに新海弘勝など。後の第1次UWFリングスドラディションでレフェリー)

永源遙(永源勝)

斎藤昌典(後のマサ斎藤)※海外遠征を経た後に復帰。


新日本プロレス旗揚げメンバー

アントニオ猪木 ユセフ・トルコ(レフェリーに転向)

山本小鉄(山本勝) 柴田勝久 北沢幹之

木戸修 藤波辰巳(現:藤波辰爾


1973年に新日本プロレスへ移籍

坂口征二 小澤正志(後のキラー・カーン) 木村聖裔(後の木村健悟

大城勤(後の大城大五郎) 田中米太郎(桂浜)(レフェリーに転向)


全日本プロレス旗揚げメンバー

ジャイアント馬場

樋口寛治(後のジョー樋口、レフェリーに転向)

駒厚秀(駒角太郎、後のマシオ駒) 轡田友継(後のサムソン・クツワダ)

藤井誠之 大熊元司(大熊熊五郎)

佐藤昭雄 百田光雄(力道山の息子)


最終所属選手

大木金太郎(金一)

高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ

上田馬之助(上田裕司、グレート・イトー)

グレート小鹿(小鹿信也、小鹿雷三、現・大日本プロレス会長)

松岡巌鉄(正剛山、ミスター松岡)

ミツ・ヒライ(シンガポール遠征時は「フジ・シンタロー」を名乗る。平井伸和の実父)

桜田一男(後のケンドー・ナガサキ

羽田光男(後のロッキー羽田

伊藤正男

※日本テレビとの3年契約後、全日本プロレスに派遣の形で上がるが大木、上田、松岡は契約中に退団、残り6人は正式入団。


崩壊時海外武者修行を行っていた選手

ミスター・ヒト(安達勝治)

林牛之助(林幸一、後のミスター林)※帰国後、全日本プロレスに入団。

星野勘太郎(星野赳夫)※帰国後、新日本プロレスに入団。

永源遙※帰国後、新日⇒ジャパンプロレス⇒全日⇒プロレスリング・ノアに在籍。

戸口正徳(後のタイガー戸口、キム・ドク)


※2021年現在、藤波辰爾、グレート小鹿、タイガー戸口は現役。

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました