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後白河天皇の編集履歴

2022-01-21 12:48:41 バージョン

後白河天皇

ごしらかわてんのう

日本の第77代天皇。院政期の治天の君として、源平合戦の世に君臨した

概要

日本の第77代天皇(在位1155年~1158年)。御名は雅仁。

2012年に放映した大河ドラマ『平清盛』の影響で、この人物を描いたものでは「雅仁親王」タグのものが2012年3月時点では一番多かった。源平合戦の時期の「後白河法皇」(出家後)の名でも知られる。


大治2年(1127年)9月11日に鳥羽上皇の第四皇子として生まれた(生母は待賢門院藤原璋子)が、皇位継承順位からは外れており、父・鳥羽院と同母兄・崇徳天皇との確執や藤原氏摂関家内部の対立をよそに、気楽な立場で踊りなど遊びまわっていた。

とくに今様(当時の流行歌のようなもの)を気に入り、研究も重ねた。また、各層身分の人々や友人達を連れて、昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かしたため、挙句歌いすぎて何度も喉を痛めてしまったほど(本人証言)。

現代的に言えば、一日中カラオケで歌いすぎて喉が枯れたようなものである。

遊びをせんとやうまれけむ

要はこんな感じ。↑

現在に今様が残っているのはこの方が「梁塵秘抄」を編んだおかげでもある。


しかし、異母弟の近衛天皇が17歳で崩御してしまう。後継天皇候補に崇徳院の第一皇子・重仁親王と雅仁親王の第一皇子・守仁親王(のちの二条天皇)が候補に挙がった。この時、藤原頼長は父・藤原忠実が「守仁親王に継がせれば雅仁親王が専権を奮うようになる(意訳)」と兄・藤原忠通に対して激怒したという話を日記に残している。一時は重仁親王が有力視されていたが崇徳院政の実現(=頼長の復権)を嫌った美福門院たちや忠通ら鳥羽院近臣達に妨害され守仁親王になるかと思われた。しかし、父親が健在なのにスルーするのは良くないという事で雅仁親王本人にお鉢が回り後白河天皇となった。


そんなわけで守仁親王が成長する場での中継ぎとして擁立された後白河天皇だったが、鳥羽院の崩御後に崇徳院や藤原頼長らと争った保元の乱(保元元年(1156年))で勝利するが、守仁親王への譲位後に、側近間の対立がもとで、平治元年(1159年)、平治の乱が発生、側近の信西藤原信頼が共倒れになり、二条天皇とその側近達に実権を奪われた。

かと思いきや、二条天皇の側近達を排除して、平清盛の妻の妹の平滋子との間に生まれた、二条天皇の弟の憲仁親王(高倉天皇)を即位させて、清盛の協力を得て再び実権を握る。この後に出家して法皇となるが、政治活動はこれまでと同様に続いた。

古いしきたりにとらわれない柔軟性を持つ後白河法皇と清盛は、との貿易を進めるなど、意見が一致する事もあったが、次第に後白河法皇(および側近達)と清盛の間の方針の違いや利害の食い違いが目立ち、滋子が薨去してから関係は急速に悪化、治承2年(1178年)、後白河法皇の側近たちによる清盛打倒の企みが多田行綱の密告により発覚(鹿ケ谷の陰謀)。このときは清盛の嫡男・平重盛のとりなしもあり側近を罰するにとどまったが、治承3年(1179年)、重盛と摂関家の所領を管理していた故・近衛基実の正室・盛子(清盛の娘)が相次いで亡くなると法皇は重盛の所領・越前を没収し、摂関領を基実の嫡子・基通ではなく基実の弟・松殿基房に与える強硬策をとった。激怒した清盛は法皇を幽閉(治承3年の政変)。清盛の娘・徳子を中宮に迎えた高倉天皇は清盛の後押しを得て実権を奪ったが、翌・治承4年(1180年)、高倉帝は徳子の産んだわずか2歳の言仁親王に譲位、高倉上皇と平家のタッグによる高倉院政が始まった。


しかし、高倉院の異母兄である以仁王源頼政と共に反乱を起こす。これを契機に源頼朝源義仲らが次々に挙兵。治承5年(1181年)、高倉院と清盛が相次いで世を去ると安徳天皇はまだ幼年であるため、清盛の後を継いだ平家の棟梁・平宗盛は後白河院が主導権を握るのを看過せざるをえなかった。宗盛達が頼朝や義仲への対策に手を取られているのをよそに、院は実権を着々と握っていき、寿永2年(1183年)、宗盛達が京から落ち延びる際には見捨てて居残り、安徳帝の弟である尊成親王(後鳥羽天皇)を即位させる。

頼朝とは比較的円滑に交渉を行っていたが、平家と入れ替わりに上洛した義仲との関係は、義仲が皇位に(後白河院とも高倉院とも関係が悪かった)以仁王の遺児・北陸宮を推したこともあって悪くなり、遂には義仲に武力攻撃(法住寺合戦)され再び幽閉された。その間、鎌倉から頼朝の弟の源範頼源義経兄弟率いる軍が上洛。義経は宇治川の戦いで義仲軍を破って入京し院と帝を救出。一方の範頼は寿永3年(1184年)1月、近江・粟津で義仲を敗死させた。

同年2月、範頼・義経軍は平家討伐に出陣、養和元年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、頼朝と関係が悪化した義経の後押しをしたせいで、頼朝から圧力を受けるようになる。しかし政情が混乱していくなか、対立をだらだら続ける意味がないと悟った両者は何とか妥協を成立させ、鎌倉幕府の政治的位置付けが確定した。その2年後に崩御。


親王時代から一般的な皇族の枠にはまらない人間関係を持っていたためか、藤原経宗・藤原師長(頼長の遺児)といった一度敵対した相手やその子弟も積極的に登用する、心の広さと抜け目なさが同居したような感じだったが、守旧的な貴族達にはかなり嫌われた。特に一貫して非協力的だった九条兼実に至っては、どうしようもなく関係が悪く、死語に仏教保護が過ぎて国を滅ぼした梁の武帝に例えられた。


いわゆる帝王学を学ばなかったため、良くも悪くも新しい時代に柔軟に対応できる天皇となり、退位後建久3年(1192年)に崩御するまで複数回の中断を挟みながらも長期にわたり院政を行う中で平家源氏などの武家と渡り合う「日本国第一の大天狗」になりおおせる(「大天狗」というのは、側近に対する比喩だという説もある)。お兄様涙目。


今様大好きで「梁塵秘抄」を残したのは前述したとおりだが、R-18絵巻物(ぶっちゃけ春画)「小柴垣草子」の詞書部分の作者でもあるという説もあり、「先生何やってんすか」ならぬ「陛下何やってんすか」と言いたい気分になる。


外部リンク

Wikipedia「後白河天皇」


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後醍醐天皇…本来なら皇位継承資格がなかったこと。その政が混乱を招いたと指弾される点が似ている。

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