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シンボリルドルフ

しんぼりるどるふ

日本中央競馬会(JRA)に所属していた競走馬・種牡馬(1983-2011)。主な勝ち鞍は1984年の牡馬クラシック三冠(皐月賞・東京優駿(日本ダービー)・菊花賞)・有馬記念、1985年の天皇賞(春)・ジャパンカップ・有馬記念。日本競馬史上初の無敗のクラシック三冠馬であり、その優れた戦績や馬名から「皇帝」の異名で知られている。

勝利よりも、たった3度の敗北を語りたくなる馬。

“永遠なる皇帝”

誘導

  1. 競走馬
  2. 1をモチーフとしたウマ娘プリティーダービーに登場するウマ娘。→シンボリルドルフ(ウマ娘)

こちらでは1に関して解説をする。2に関してはリンク先のタグを使用する事を推奨。

誕生~3歳時代

※この記事では、原則として馬齢表記に旧表記を用います。

「競馬には絶対はない。だがシンボリルドルフには絶対がある」(調教師・野平祐二)

1981年3月13日、北海道門別町のシンボリ牧場で誕生(84世代)。馬名の由来は馬主の冠名「シンボリ」と、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ1世に因むものである。

父は以前から数多くのGⅠ馬を輩出し、リーディングサイアーにも輝いた名種牡馬パーソロン。母スイートルナ、母の父がシンボリ牧場産の中でも指折りの名馬スピードシンボリという血統だった。

この配合の馬は過去にも数頭存在していたが、そのほとんどは気性難により大成する事が無かった。

しかし、シンボリ牧場のオーナーであった和田共弘は諦めずにこの配合を繰り返し、その結果生まれてきたのがシンボリルドルフである。

生まれたてのこの馬の額には、母の名前を思い起こさせる三日月のような模様がついていた。

その後、彼は美浦の野平祐二厩舎に入厩。調教助手は後に独立して厩舎を開業し、数々の名馬を手掛けることとなる藤沢和雄だった。

1983年、新潟競馬場でデビューを飾った。この時、主戦騎手の岡部幸雄「1000mで1600mの競馬を覚えさせた」と語っている。

そして次走のいちょう特別も勝利。野平調教師は「1600mで2400mの競馬をしていた」と評した。

その後、朝日杯3歳ステークスではなくオープン一般競走に出走したルドルフはここも難なく勝利。

翌年へ向け、3歳時代を無敗のまま終えた。

ちなみに、ルドルフが朝日杯に出走しなかった理由は馬主の意向である。

ジャパンカップのため来日していた海外の競馬関係者に「日本にも凄い馬がいる」事を見せつけてやろうと考えたためであった。

4歳時代

4歳となったルドルフの初戦は、皐月賞トライアルのGⅢ弥生賞。

それまで無敗だったビゼンニシキに1番人気こそ譲ったが、レースではキッチリ勝利し皐月賞への出走権を手にした。

そして迎えた皐月賞。

ルドルフは単勝オッズ1.5倍という圧倒的一番人気に推された。

ちなみにこの時、ルドルフとビゼンニシキには人気が集中する事が予想されたため、この2頭のみ単枠指定となった。

始まったレースでは先行策をとり、3・4番手辺りで競馬を進めたルドルフ。

第4コーナーで先頭に立つと、ビゼンニシキと接触する程の激しい叩き合いに。

最終的に1と1/4馬身差離してゴールイン。

見事、クラシック1冠目を手にした。この後の記念撮影の折り、岡部騎手は天高く1本指を掲げた。「まずは1冠」という意思表示である。

その勢いのまま、2冠を取るべく出走した日本ダービー

このレースでは、ルドルフとビゼンニシキのあまりの強さの為か回避馬が相次ぎ、戦後最少となる21頭立てのレースとなった。

皐月賞同様、ビゼンニシキと共に単枠指定とされたルドルフ。

単勝オッズは1.3倍という凄まじい数字となった。

そしてレースがスタート。スズマッハが逃げの体制に入り、ルドルフは再び好位につけようとした。

しかし、向こう正面で勝負に出ようとした岡部騎手の指示にルドルフは全く反応を見せなかった。

が、ルドルフは直線に入ると自ら進出を開始し先行勢を一気に差し切る。

そのままダービーのゴール板を一着で駆け抜けたのだった。なお、ビゼンニシキは14着と完敗していた。

見事にダービーも制し、無敗でのクラシック2冠を達成したルドルフ。

鞍上の岡部は「ルドルフに競馬を教えてもらった」と語った。

口取り式では、岡部が天に向けて2本の指を掲げた。

無敗の3冠というかつてない大記録に向けて、競馬界の期待は高まっていった。

ちなみにこの時、ルドルフは海外遠征を計画していた。しかし、右脚に故障を発生してしまったため遠征は中止されている。

そして、秋。

菊花賞トライアルのGⅢセントライト記念に出走したルドルフは、レコードタイムを叩きだし快勝。

無敗の3冠へ向けて、もはや不安要素は0に等しかった。

そして遂に迎えた、第45回菊花賞

ルドルフは単勝オッズ1.3倍の一番人気だった。

レースがスタートすると、ルドルフは中団あたりで競馬を進めた。最後の直線で一気に抜け出したが、外からゴールドウェイが強襲してきた。

しかし、それでもゴールドウェイを3/4馬身差で抑え、優勝。

遂に日本競馬史上4頭目、そして史上初の無敗の3冠馬の栄冠を手に入れたのであった。

表彰式では、鞍上の岡部が三度指を掲げた。3冠を意味する、3本指を。

その後ルドルフは、中1週の強行スケジュールでジャパンカップに出走した。

このレースには、前年にクラシック3冠を達成していたミスターシービーも出走。

史上初となる、3冠馬同士の直接対決となった。

この時の1番人気はミスターシービー。ルドルフはこの時下痢を発症しており、中1週という強行スケジュールだった事もあり4番人気と大きく人気を落としていた。

が、このレースを制したのは全くノーマークの馬だった。

10番人気のカツラギエースが逃げたまま直線に向き、そのままルドルフ等の追撃をかわし1着でゴールインしたのである。

ルドルフは生涯初の敗北を喫した上、連対まで外す3着に敗れてしまった。

ちなみに、ミスターシービーは10着と惨敗していた。

しかしながら、暮れのグランプリ有馬記念では単勝オッズ1.7倍の1番人気に推された。

レースでは、ジャパンカップで苦杯を舐めさせられたカツラギエースをマークしながら走る展開。

直線でカツラギエースをかわし、2馬身差をつけて1着。

ジャパンカップの負けを跳ね返し、見事雪辱を果たした。

ちなみに、カツラギエースはこの有馬記念を最後に引退する事が発表されていた。

ルドルフにとって、リベンジを果たすチャンスはここしか無かったのである。

勝利後の表彰式では、岡部騎手が「4冠」を示す4本目の指を立てていた。

そして、ルドルフはこの年の年度代表馬に選出された。

古馬時代

有馬記念でリベンジを果たしたルドルフは、GⅡ日経賞に出走。

持ったまま4馬身差つけて圧勝し、無敗の3冠馬の威光を示した。

そして、天皇賞(春)に出走したルドルフはここでも2馬身半差で快勝。

岡部騎手は5本指を掲げ、5冠目の達成を表した。

もはや国内に敵はおらず、海外の最高峰レースの一つ「キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス」への遠征も計画されていたルドルフ。

その前哨戦のような形で、ルドルフは宝塚記念へと出走する予定だった。

ところが、宝塚記念への出走は急遽取りやめとなった。

阪神競馬場のコースの一部で芝がはがれており、ルドルフが足を取られて転倒してしまったのだ。

これにオーナーの和田が激怒したため、前日になって出走が取り消されたのである。

それ以外にも、ルドルフの体調不良を察して出走を取りやめようとする野平調教師と、あくまで出走させようとする和田が対立。

結局和田側が折れたという経緯もあった。

結局、海外遠征にはシリウスシンボリのみが向かった。

そしてこの時、ある衝撃的な話題が競馬界を駆け巡った。

それは「シンボリルドルフの引退」というもの。

宝塚記念直前に怪我をしてしまったシンボリルドルフだったが、その後の回復は順調とは言えなかった。

そのため、オーナーの和田が「海外遠征を中止し、シンボリルドルフを引退させる」という談話を発表したのである。

この知らせを聞き、先だって欧州に居た岡部騎手は酷く落胆した。

しかし、その裏で和田はルドルフに対し必死の治療を続けていた。そして、一か八かの思いで行った笹針治療が功を奏し、ルドルフは無事快方へ向かったのである。

これにより、和田は引退宣言を撤回。現役続行となったルドルフは、天皇賞(秋)へとぶっつけで参戦した。

しかし、快方に向かっていたとはいえ未だルドルフは万全の状態では無かった。

直線で後続を引き離しにかかったルドルフだったが、大外からやってきた13番人気のギャロップダイナの強襲に屈し、2着に敗れてしまう。

またしても伏兵に足元をすくわれた格好となった。

その後ルドルフは、前年屈辱を味わったジャパンカップに再度出走。

今度こそ1番人気に応えて勝利し、6つ目のGⅠを勝利した。

そして、国内でのラストランとなった有馬記念。

実況の盛山アナの「世界のルドルフ、やはり強い!3馬身、4馬身、日本のミホシンザンを離す!日本最後の競馬!最後のゴールイン!ルドルフ圧勝致しました!日本でもうやる競馬はありません!あとは世界だけ!世界の舞台でその強さをもう一度見せてください!」という名実況と共に、4馬身差をつけて圧勝した。

そして、ルドルフは前年に続いて満票で年度代表馬に選出された。

その後、海外へ渡ったルドルフ。

しかしこの時、遠征計画を巡って和田と野平が対立し、調教などを全て現地のスタッフに任せるという異常事態が起こっていた。

そして、アメリカのGⅠサンルイレイステークスに出走したルドルフだったが、途中に横切ったダートコースで左前脚繋靭帯炎を発症してしまい6着に敗れた。

帰国後再度の遠征が検討されたが、最終的に現役引退が決定。

12月7日に中山競馬場で引退式が催された。

この時、ルドルフは「7冠」を示す7の数字と王冠が描かれたゼッケンをつけて登場した。

こうして、「皇帝」と呼ばれた名馬はターフを去った。

引退後

現役を引いたルドルフには総額10億円のシンジケートが組まれ、シンボリ牧場で繁殖生活に入る事となった。

結果的に種牡馬としては成功を収め、多くの重賞勝ち馬を輩出した。

特に最高傑作と言われているのが、初年度産駒の1頭トウカイテイオー

牡馬クラシック2冠を達成した他、度重なる故障から不屈の闘志で復活を果たした歴史的な名馬である。

「皇帝」から「帝王」へと繋がる血統ロマンに魅せられた競馬ファンも多かったのではないだろうか。

その後、ルドルフは2004年に種牡馬を引退し功労馬として余生を過ごし始めた。

2010年には、北海道の寒さはきついのではないかという配慮から千葉のシンボリ牧場に移動された。

そして同年にジャパンカップが第30回目を迎えた事を記念し、ルドルフは東京競馬場のパドックで24年ぶりにその姿を観衆に見せつけた。

この頃のルドルフは、高齢により多少馬体が細くなってはいたが、体つきはガッチリしており、毛並みもツヤツヤと、とても20年以上前の馬とは思えない若々しい姿であったという。

ルドルフの栄光を知るものは「今から走らせても通用するのではないか」とすら言わしめた。

その翌年の2011年10月4日、繋養先の千葉シンボリ牧場で死亡。30歳(現表記)という大往生だった。

死去の数日前から体調を崩していたが、それまでは健康そのもので、高齢の馬とは思えないほど元気だったという。死因は不明。皇帝は最期までその威光を陰らせることなく天国へと駆けていった。

その年のペルセウスステークスとオパールステークスは、「シンボリルドルフ追悼競走」と冠されてのレースとなった。

現在、後継種牡馬であるトウカイテイオーの繁殖成績はあまり芳しくは無く、彼の後継種牡馬はクワイトファイン一頭だけである。

果たして、皇帝の血は無事に受け継がれていくのだろうか。

競走成績

レース名グレード競馬場人気着順騎手
3歳新馬新馬新潟1番1着岡部幸雄
いちょう特別400万下東京1番1着岡部幸雄
3歳オープンOP東京1番1着岡部幸雄
弥生賞GⅢ中山2番1着岡部幸雄
皐月賞GⅠ中山1番1着岡部幸雄
日本ダービーGⅠ東京1番1着岡部幸雄
セントライト記念GⅢ中山1番1着岡部幸雄
菊花賞GⅠ京都1番1着岡部幸雄
ジャパンカップGⅠ東京4番3着岡部幸雄
有馬記念GⅠ中山1番1着岡部幸雄
日経賞GⅡ中山1番1着岡部幸雄
天皇賞(春)GⅠ京都1番1着岡部幸雄
宝塚記念GⅠ阪神取消
天皇賞(秋)GⅠ東京1番2着岡部幸雄
ジャパンカップGⅠ東京1番1着岡部幸雄
有馬記念GⅠ中山1番1着岡部幸雄
サンルイレイSGⅠサンタアニタ3番6着岡部幸雄

余談

  • 性格

ルドルフは、厩舎にいる際は気が荒く乱暴であり、その様から関係者から「ライオン」と呼ばれていた。

一方で馬房の外では暴れずに堂々とした立ち振る舞いを見せており、気ままに振る舞っていい場所とそうでない場所をきちんと理解していたとされる。

彼の産駒の中に、ヤマトダマシイという馬が居た。母バタイユ、母の父にキタノカチドキがいるという血統だったが、新馬戦で大きく出遅れてしまう。

しかしそこから大爆走し、最終的に14頭をまとめて差し切った上3馬身差をつけて圧勝するという凄まじいレースを見せていた。

一時はビワハヤヒデナリタブライアン等有力馬とに互角以上に戦える可能性があると話題になったものの、2戦目の条件戦で競走中止、予後不良となってしまった。

この時同馬を管理していたのは、まだ厩舎開業から数年しか経っていなかった藤沢和雄であった。

彼はヤマトダマシイの死を未だに悔んでおり、それが「馬を大事に使う」という藤沢厩舎の方針につながったと言われている。

  • 人気競馬シミュレーションゲームであるウイニングポストシリーズには、トウカイテイオーの子供でルドルフの孫にあたるサードステージという馬が登場している。シリーズ1作目から登場しているスーパーホースであり、ルドルフの意思とテイオーの無念を受け継ぎ、無敗の3冠に挑むという設定である。多くの場合化物じみた強さに調整されているため、プレイヤーが彼に勝利するのは至難の業。彼に勝利する事が、ウイニングポストシリーズの1つの目標なのかもしれない。
  • ルドルフを輩出したシンボリ牧場を営む和田家の親戚筋にあたる、田村家が経営する島根県の酒造メーカー「簸上(ひかみ)清酒」より、彼をイメージした「七冠馬」という名前の日本酒が販売され、同社の看板商品となっている。
    • 2022年3月13日(ルドルフの誕生日)にウマ娘のシンボリルドルフをラベルにあしらった限定醸造品の発売が告知され、即日完売となった。
    • なお、この酒のCMナレーションは神谷明が担当している。なんでも、神谷と田村家は古い付き合いがあり、そのご縁によるものだとか。

※1:20~1:35を参照。

  • 「ルドルフの呪い」

先述したようにGⅠ最多勝利記録である「GⅠ7勝」を成し遂げたルドルフであったが、彼以降、テイエムオペラオー(2001年の春の天皇賞で達成)・ディープインパクト(2006年の有馬記念で達成)・ウオッカ(2009年のジャパンカップで達成)・ジェンティルドンナ(2014年の有馬記念で達成)・キタサンブラック(2017年の有馬記念で達成)と、ルドルフと同じくGⅠ7勝を達成した競走馬はいたものの、なかなかルドルフの記録を超える馬は現れなかった。このジンクスを俗に「ルドルフの呪い」と言う。

しかし、ルドルフによるGⅠ7勝達成から約35年後の2020年、アーモンドアイが天皇賞秋を勝利してGⅠ勝利記録を史上最多となる8勝に伸ばしたことで、ようやくこのジンクスが破られることとなった。なお、アーモンドアイは引退レースとなったこの年のジャパンカップでも勝利し、日本競馬におけるGⅠ最多勝利記録を9勝(海外GⅠ1勝も含む)に伸ばしている。

その後、2021年にはオジュウチョウサン中山大障害を勝利して障害GⅠ8勝を記録し、障害競走という違いはあれど再びこのジンクスが破られることとなった。

関連タグ

競馬 競走馬

トウカイテイオー 初年度産駒。

サードステージ

ディープインパクト 史上2頭目の無敗三冠馬。

コントレイル 史上3頭目の無敗三冠馬。

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