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メジロラモーヌの編集履歴

2023-02-27 17:59:49 バージョン

メジロラモーヌ

めじろらもーぬ

日本の元JRA競走馬、繁殖牝馬(1983-2005)。日本競馬史上初の三冠牝馬となった。

誘導

こちらは実在の競走馬について記述する。アプリゲーム『ウマ娘プリティーダービー』に登場するキャラクターはこちらの項目を参照→メジロラモーヌ(ウマ娘)


概要

'86年桜花賞

その美しき黒い流線形。

嫉妬すら追いつかない。憧れすら届かない。

その馬が、史上初の三冠牝馬になることを、まだ誰も知らなかった。

魔性の青鹿毛。その馬の名は…「メジロラモーヌ」。

2012年・JRA.CM「桜花賞」より



1983年4月9日生まれ。

モガミ、母メジロヒリュウ

通算12戦9勝。

生産者・馬主は有限会社メジロ牧場

美浦トレーニングセンター・奥平真治厩舎所属。


1985年 3歳戦

(以下馬齢は旧表記で記す。

1985年10月13日、東京競馬場の3歳新馬戦(芝1400m→ダート1400mに変更)で、小島太を鞍上にデビュー。直前の調教では1000mで60秒を切る好タイムを記録、調教パートナーを4、5馬身突き離していた。こうした情報がファンにも伝えられ、新馬戦から単勝オッズ1.4倍という圧倒的な1番人気に支持された。レースもスタート直後から先頭に立つと、最終コーナーからは後続を突き離す一方で、2着に約20馬身差、3秒1の大差を付けて圧勝した。


次にGⅡ京成杯3歳ステークス(11月3日)に出走。デビュー以来圧勝を続け、ラモーヌのライバル的存在であったダイナアクトレスとの対戦が注目を集めたが、同馬は故障で出走を回避、当日は牡馬ダイシンフブキ(同年の朝日杯3歳ステークス優勝馬)を抑え単勝1番人気に支持された。しかし、スタートで他馬と衝突して興奮した影響から終始掛かり通しとなり、直線で失速して5頭立ての4着に敗れた。


競走後には疝痛、さらに骨膜炎(ソエ)を発症して調教を控える。しかしすぐに回復し、4週間後には条件戦に出走、小島が同日に阪神競馬場で騎乗していたため、本競走より柏崎正次が騎手を務めた。レースではほとんど追うところなく、2着に1馬身弱の差で勝利を収める。

2週間後、当年の最終戦としてGⅢのテレビ東京賞3歳牝馬ステークス に出走。当日は単勝2番人気であったが、2着ダイナフェアリーに3馬身半の差を付けて勝利。人馬ともにキャリア初の重賞制覇を果たした。勝ちタイム1分34秒9は、当時の3歳牝馬としては破格の好記録であり、当時3歳馬で1600メートルを1分35秒を切るタイムを記録したのはメジロラモーヌの他にはマルゼンスキー(76年朝日杯3歳S・1:34.4)、コーネルランサー(73年ひいらぎ賞:1.34.6)の二頭だけだった。

当年、通算4戦3勝の成績で、翌年1月にはJRA賞最優秀3歳牝馬に選出された。


1986年

春・牝馬クラシック2冠まで

年明けて1986年、厩舎内で休養後、1月半ば過ぎからは古牡馬トウショウペガサスと併せ馬を行うなど、本格的な調教を再開。1月26日の復帰戦クイーンカップを迎える。当日は単枠指定を受け、単勝オッズは1.2倍と圧倒的な人気を集めた。しかし競走前から激しくイレ込み、レースでは先行2番手に付けながら直線で失速。4着に敗れた。


次走は桜花賞に備え関西に移動、トライアル競走の報知杯4歳牝馬特別に出走した。ラモーヌが3歳の頃から、関西で出走する際には河内洋を騎手とする方針が決められていたため、予定通りこのレースより河内が騎手を務め、以後引退まで鞍上を務めた。レースでは中団から後方を進んだが、第3コーナーで失速後退してきた先行馬の影響を受け、直線入り口でほぼ最後方の位置まで下がった。しかし直線では一気の追い込みを見せ、ゴール寸前でチュウオーサリーをクビ差交わしての勝利を収めた。この勝利から、当時史上最強牝馬の1頭と目されていたテスコガビーとの比較が関係者・ファンの間で頻繁にかわされたほどである


そして4月6日に迎えた桜花賞、5枠13番で単枠指定を受け、オッズ1.6倍の1番人気となった。競走前には焦れ込む様子を見せたが、レースでは中団に付けると第3コーナーから先団に進出、直線で早めに抜け出し、追い込んだマヤノジョウオに1馬身3/4差を付けて優勝、クラシック初戦を制した。馬主のメジロ牧場にとって初のクラシック制覇であり、後に「桜花賞男」と称される河内にとっても、これが最初の桜花賞勝利であった。


美浦に戻った後、二冠を目指す優駿牝馬を控えたが、ここまでの2敗はいずれもオークス開催場の東京競馬場で喫しており、この不安点を払拭するためにトライアル競走のサンケイスポーツ賞4歳牝馬特別に出走した。桜花賞に出走していなかったダイナアクトレスと初対戦となったが、直線で先頭に立った同馬を一気にかわして勝利。1982年桜花賞優勝馬リーゼングロス以来、4年ぶりとなる桜花賞馬による同レース勝利で東京競馬場での重賞初勝利を挙げ、本番である優駿牝馬に臨んだ。


当日は桜花賞の人気を上回る支持を集め、単勝オッズは1.4倍まで下がった。レースではスタートで躓き後方からの運びとなる。しかし埒沿いの最短距離を通って徐々に先団に進出すると、最後の直線半ばで先頭に立ち、ユウミロク(後の名障害馬ゴーカイの母)に2馬身半差を付けて優勝。1976年テイタニヤ以来10年振りの牝馬クラシック二冠を達成した。また、サンケイスポーツ賞4歳牝馬特別の優勝馬による同レース勝利も、これが初であった。その競走内容は往年の名騎手・野平祐二が「オークス史上稀に見る強さ」と評し、鞍上の河内もインタビューにおいて「テスコガビーを超えたと思う。本当に強い馬やな」と語った。


優駿牝馬後は放牧、故郷・北海道洞爺町のメジロ牧場で休養に入った。


秋・牝馬三冠達成

8月には函館競馬場に入って調教を再開、以降は三冠が懸かるエリザベス女王杯(当時4歳馬限定戦)を目標にクイーンステークス(当時は4歳馬限定戦・かつ中山競馬場で開催)から復帰する予定であったが、調教中に挫石が原因と見られる歩行異常を来たし、復帰予定が遅れた。10月に函館から直接関西に入り、改めてローズステークスで復帰。レースでは先行集団に入り、直線で抜け出しを図るも、先行したポットテスコレディとの競り合いになる。ゴール寸前でクビ差かわして勝利を収めたが、辛勝とも評された。


エリザベス女王杯(秋華賞の創設は1996年であり、当時はエリザベス女王杯が三冠目に位置付けられた。)


そして迎えた11月2日のエリザベス女王杯、後に管理した奥平師の回想では、ラモーヌの状態は「70%くらいの調子」だったという。本競走の前身・ビクトリアカップの創設以来初めての牝馬三冠達成が懸かり、当日の単勝オッズは1.3倍と圧倒的な1番人気となった。レースでは3番手の一団を進んだが、ラモーヌはゴールまで800m地点の第3コーナー下り坂から仕掛け、先頭に並んだ。一部には早過ぎるスパートとも映り、関西テレビにて実況した杉本清


河内、河内、早いのか、これでいいのか


と心配するように実況した。最後の直線では先頭を保ったが、ゴール前で脚が鈍り、直後に追い込んだスーパーショットが馬体を接した。しかしクビ差凌ぎ切り、4歳牝馬路線が整備されて以来、初めての牝馬三冠を達成。ラモーヌは三冠各競走のトライアル競走も全て制していることから「完全三冠」とも評された。また、この賞金の加算分で、獲得賞金が牝馬として初めて3億円を突破し、当時の歴代賞金女王ともなった。なおこのエリザベス女王杯の勝利で6連勝となり、これは当時の中央の重賞連勝記録であった。


競走後にはジャパンカップへの出走を期待する声が上がったが、エリザベス女王杯の前から有馬記念での引退が決定しており、次の有馬記念がラストランとなった。当日は「これまでで最高の体調」という状態で臨み、ミホシンザンに次ぐ2番人気に支持された。レースでは道中中団から直線に向いたが、抜け出しを図ったところで1頭分のスペースにラモーヌ、スダホーク、フレッシュボイスが同時に突っ込み、急ブレーキが掛かる形で失速。態勢を立て直せず、同期の日本ダービー優勝馬ダイナガリバーの9着と大敗を喫し、ラストを飾ることはできなかった。


年度代表馬もダイナガリバーが受賞したが、ラモーヌは牝馬三冠を評され、最優秀4歳牝馬を受賞した。



引退翌年の1987年シンボリルドルフと共に顕彰馬に選出された。



繁殖牝馬としては産駒に活躍馬は出せなかったが、その孫の代や曾孫の代で重賞勝ち馬を多く出し、曾孫にフィールドルージュ、グローリーヴェイズなどがおり、ラモーヌの牝系は今も残っている。


2005年に22歳で死去。


関連項目

競走馬 JRA サラブレッド


(後年の牝馬三冠馬)

スティルインラブ アパパネ ジェンティルドンナ

アーモンドアイ デアリングタクト


86世代

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