概要
室町時代より安土桃山時代、そして江戸時代初期といった戦国時代において、4代に渡る形で「服部半蔵」の名を襲名し活躍していた者達を指す。
初代:服部半蔵・保長
生没年に関しては一切不明。保長は「やすなが」と読む。通称は半三とも。
戦国時代に活躍した歴代の服部半蔵の中では、正真正銘の伊賀流忍者である。
『百地家』『藤林家』に並ぶ伊賀の三大上忍の一つ『千賀地家』の出身であり、最初は千賀地を名乗っていたが、伊賀を出奔した際に三家共通の旧姓であった服部に改めた。
伊賀を出た当初は、室町幕府12代将軍足利義晴に仕えていたが、幕府自体が衰退期を迎えてしまった為に、見切りをつけた保長は、三河へと移動し、松平清康に仕える。この事が、のち伊賀流忍者と江戸幕府の深い繋がりを持つ切っ掛けとなっていく。
しかし、松平家もまた「森山崩れ」で清康が横死したのを境に衰退の道を辿っていく事になり、それ以降の保長の動向も不明。
一説では、清康死後は伊賀に戻り「天正伊賀の乱」の際に戦死したとされている。また、別説では清康死後も松平家に留まり松平広忠次いで徳川家康に仕えたともされる。
「伊賀越え」の次期に息子の正成に家康の事を任せ、自身は伊賀に戻って隠居した(あるいは後進の指導にあたった)ともされている。
2代目:服部半蔵・正成
正成は「まさなり」または「まさしげ」と読む。通称は「弥太郎(やたろう)」。
戦国時代に活躍した歴代服部半蔵の中でも、最も有名なのが、この2代目服部半蔵である。「鬼半蔵」の異名を持つ程の名将として活躍している。
父親の保長とは違い、忍者ではなく武将に過ぎなかったとされるが、忍者としての訓練も受けていたという説もあり、一部の記録等でも正成は戦場で忍者の様な俊敏さを持ち、伊賀流忍者達を率いた撹乱戦も得意としていたとされている。また、戦いでは槍の使い手であったとされている。
歴代の服部半蔵の中でも、数多くの苦難を家康と共に経験した正成は、徳川四天王や本多正信にも引けをとらない信頼を家康から得ていたとされている。
父・保長から家督を継いだ正成は、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いといった戦いに家康と共に参戦し、武功をあげていった正成は家康から槍を褒美として与えられた。
後に、家康の長男・松平信康が織田信長(または家康)の命によって切腹をする事になり信康の介錯をする事になった。しかし、正成は主筋である信康の介錯を出来なかったとされ、検死の武士・天方道綱が代行したと言われている。このことは後に家康からも「鬼と言われた半蔵でも主君を手にかけることはできなかったか」と正成をより一層評価したという。
戦国時代の正成の活躍でも特に有名なのが、明智光秀の反乱によって織田信長が死亡した「本能寺の変」直後に、家康が明智軍から逃れるべく敢行した「伊賀越え」である。
家康の護衛をしていた正成は、商人・茶屋四郎次郎清延とともに伊賀・甲賀の地元の土豪と交渉し彼らに警護させて一行を安全に通行させ伊勢から船で三河の岡崎まで護衛しており彼らは後に伊賀同心・甲賀同心として徳川幕府に仕えている。
豊臣秀吉が死去し、家康によって江戸幕府が開かれた後も、正成は8000石を領し、伊賀同心200人の支配役を任され、幕府を縁の下の力持ちとして支え続けた。
3代目:服部半蔵・正就
正就は「まさなり」と読む。2代目服部半蔵・正成の嫡男として生まれた。通称は「源左衛門(げんざえもん)」。
戦場ではいつから出陣していたかは不明であるが、15歳くらいの時には父・正成と共に戦場に出陣し、家康に仕えていたとされている。小牧・長久手の戦いや小田原征伐でも、父・正成と共に徳川軍として参加したとされている。
正室は松平定勝の長女・松尾。彼女の父である定勝は家康の異父弟でもあり、これは実質的に服部家と徳川家が血縁関係になる事を意味している為、正就が家康から相当の期待を抱かれていた事がうかがわれる。また、松尾自身も家康の母である於大の方の侍女として使えていた経歴がある。
また、家康の子達の中では、次男に当たる結城秀康と関わりが深かったとされる。
慶長元年(1596年)の12月末に、父・正成が没してからは、その長男であった正就が3代目服部半蔵として伊賀同心達200人の支配役を任される事になる。
この時期、当時の天下人であった豊臣秀吉が病没し、主君である家康が石田三成を始めとする五奉行や同じ家老である五大老とも確執を深めていく一方となっており、後に「天下分け目の戦い」とされる関ヶ原の戦いへ発展した事からも、必然的に徳川家の家臣となる正就もまた、同心支配役就任の早々よりかなり多忙を迫られる事になったと言える。
関ヶ原の戦いの前哨戦と言える会津征伐時も参戦し、本多忠勝、渡辺守綱、水野正重らと共に家康の護衛に当たっている。また、関ケ原の戦いへ発展した後は、本戦にこそ参戦していないものの、西軍側へ与していた上杉家の牽制役の一人として大田原城に派遣され、伊賀者や甲賀者の100人達と共に、白河城へ籠った上杉景勝の進軍に備えて防衛を担っている。
関ヶ原の戦いが終結してから1年後となる1601年の7月には大田原城から撤退し、その後は江戸において家康から征夷大将軍の座を引き継いだ徳川秀忠に仕える事になった。
なお、伊賀忍の抜け忍とされている石川五右衛門や、北条家に仕えた忍者で盗賊に成り下がった風魔小太郎の捕縛に、少なからず関わっていたとされているが、これらに関しては創作の可能性も否定出来ない。
慶弔10年(1605年)、同心の支配役を任されたに過ぎない正就が、同心達を家来扱いしているとして、同心達の殆どが武装して四谷長善寺に立て篭る事件が発生。現代でいうストライキである。彼らは正就の支配役解任と自分達の与力への昇格を要求し、この騒動の結果、正就は本多正信の子である本多正純によって役を解かれる事になった。更にその後、逆恨みした正就は、騒動の首謀者である同心10人の死罪を要求し、その内の8人が処刑され、逃げた2人を追った末に別人を殺してしまった結果、完全に職を失い、浪人にまで落ちぶれてしまう事になった。
浪人になった後は、妻の父である伏見藩の松平定勝の下に召し預けられた。その後、定勝の伏見城代就任に伴い同行し、後に許されて定勝に仕える身となっている。
慶長20年(1615年)、汚名返上を狙い、家臣の長嶋五左衛門や従者達と共に松平忠輝の軍に属して大坂・夏の陣に参加するも、運の悪い事に自身が所属する軍の指揮官である忠輝が問題を起こした(将軍・秀忠の旗本を「無礼討ち」と称して斬り殺してしまった)挙句に軍を大幅に遅らせてしまった結果、戦場に辿り着いたのは中盤以降になってしまった挙句、最終決戦時に消息不明となってしまう事になった。
一説では、汚名返上が出来なかった事を恥じて自刃したとも、主君や妻子の元に帰るに帰れず、農民として余生を過ごしたとも言われている。また、別説では伊賀の同心支配役を解任された後も同心達から邪魔者扱いされ続け、汚名返上されて支配役に戻ってしまう事を恐れた同心達に暗殺され、遺体も処分されたとされている。これらからも、歴代の服部半蔵の中でも謎の多い末路を遂げてしまったと言える。
生年は1565年とも1576年ともされている。
前者の場合だと、あまり知られてはいないが実は森蘭丸や伊達政宗、真田信之、真田幸村といった戦国時代でも有名な人物達と同年代となり、蘭丸に至っては同じ年である。一方、後者の場合だと秀康と同年代となる。
冤罪の可能性
同心達が正就に反抗して起こした騒動の一件に関しては、正就一人が一方的に立場の悪いものとなっている事から、正就を貶める為に同心側が仕組まれた陰謀説も囁かれている。
元々伊賀流は、金銭的利益の為ならばいかなる勢力にもついて同胞同士での殺し合いも厭わない部分があった。また、自分達伊賀側が同心であるのに対し、甲賀側は関ヶ原の戦いにて一部の同心達が裏切って西軍側についていたにも拘らず、幕府から格上の与力として扱われていたのも、不満の理由としては十分なものと思われ、その不満の矛先がと当時の支配役であった正就に向けられてしまっても、何らおかしくはないと言える。
そもそも、この騒動を起こした張本人である同心達は、実の所、「正就個人に反感を抱く様になった」のではなく、「前任であった正就の父・正成の頃より、服部家が同心の支配役である事にずっと不満を抱いていた」というのが真実である。
しかも、その動機は「服部家が支配役になったのは正就の祖父である保長が他の伊賀者よりも先駆けて徳川家に仕えたからに過ぎない」、「服部家の家格は支配下に置かれている自分達よりも下なのに支配役なのはおかしい」と、かなり傲慢な物となっており、この為に「正就が騒動を起こした首謀者の死罪を要求した」という話も、増長し始めた伊賀同心達を危険視した本多正信・正純父子や天海等によって、同心達への牽制として家康に進言したという説もある(実際、宇喜多秀家の家臣達が同じく主君に反感を持って立て籠った「宇喜多事件」の場合は、政治的対立が激しい状況だったとは言え、かなり穏便な形で処断が行われている)。
更に、「同心達が寺に籠った騒動」に関しても、後年の創作である可能性が高い。
この騒動に関する記録のある「武徳編年集成」は、戦国時代の終結より実に100年以上も経った寛保元年(1741年)に成立した物で、つまりその時には当事者達はとっくにこの世を去っている為、言ってしまえば「どうとでも都合の良い様に編纂も可能」であったのである。
実際、この武徳編年集成の内容はそれ以前の資料や正就の次男が幕府へ提出した訴状は内容が大きく異なる物となっており、正就は何も言えなくなった死後にて、その経歴を大きく辱められてしまった可能性も高いようである。
なお、正就が改易された実際の理由は、「騒動を起こした同心達の取り調べが行われ将軍・秀忠のお目見えを迎えようとしていた前日に、密かに病を患った身内を見舞いに行った事」や「その帰りに同行していた家来に因縁をつけて刀で切りかかって来た伊奈忠次の配下である足軽を切り殺してしまった事」にあったとされている。また、正就の支配役解任を進言した本多正純とは、正就と不仲であったという説もある。
4代目:服部半蔵・正重
正重は「まさしげ」と読む。2代目服部半蔵・正成の次男として生まれたが、兄の正就とは15歳程の年齢差がある。通称は「長吉(ちょうきち)」
1600年、天下分け目の戦いである「関ヶ原の戦い」では、大田原城で上杉軍への牽制任務に就いていた正就とは異なり、関ヶ原の本戦に参戦する形で初陣となった。
しかし、戦いの前日夜に、家康から正就と共に父・正成の偉業を聞かされた正重は、手柄にあせる余り、家康に無断で、合戦の開戦前に敵陣に単独で入り、侍大将の寝込みを襲う形で首を討ち取る。
しかし、これは戦国時代の合戦における暗黙のルール違反であり、家康に侍大将の首を見せて事の経緯を得意げに話した正重は、逆に家康から「父親はその様な卑怯者ではなかった」と、怒りを買ってしまい、後に服部家側が許しを求めた結果、処罰は受けなかったが、恩賞も無かったとされている。
その後、正就が同心の支配役であった事から、自身は兄とは別に大久保長安の元に仕えて彼の娘を正室に迎える事になり、以降は佐渡金山の政策を担当する事になった。
しかし、運の悪い事に、義父となっていた長安が豊臣家の実権を握っていた淀殿や下克上を狙っていた伊達政宗と結託して徳川家の潰しを行おうとしていた、佐渡金山の金銀横領等といった疑いが掛かってしまう事になる(金銀を秘蔵していたのは一応の事実で、更に長安は自身専用として黄金の棺桶という贅沢極まりないものを作らせていた)。
何とかその時はお咎め無しで済んだ正重であったが、その後目付から佐渡で待機する言いつけを守らず、その対岸の出雲崎で目付達を出迎えた結果、結局は家康の激怒を買ってしまい、所有していた3000石も没収となった。
浪人となったその後は、様々な藩に家来として仕えたものの、どれも取り潰しやお家断絶、家督争い等で再び浪人となり、最終的には兄嫁の松平家に召抱えられ、2千石を得たことで桑名藩の家老として服部半蔵家は存続することとなった。