概要
先行するボーイング707の基本設計(特に胴体)を流用しながらも、リアエンジン3発方式やそれにより主翼全体に強力な高揚力装置を取り付けるなどを行うことにより、それまでジェット旅客機(特にB707)が滑走距離などの関係で足を踏み入れることが難しかった地方空港のジェット化にも寄与した画期的な機体である。
日本では全日空がフラッグシップ機として運用したことでも知られている。
後継機の757の方が有名なためあまり知られていないが、アメリカの第45代大統領だったドナルド・トランプが2011年まで自家用機「トランプ・フォース・ワン」として所有していた。
機体
それまでローカル線で運用されていたレシプロ旅客機の後継機として、「小規模な空港でも発着でき、なおかつB707よりも収容力が小さい機体」として企画された機体である。
設計にあたっては707の胴体の基礎設計を流用しているが、(滑走路の短い)小規模な空港でも発着できるようにするため機体後部にエンジンを装備し(リアエンジン)、主翼に強力な高揚力装置を取り付けることで強力なSTOL性を確保した。
なお、エンジンの数については開発開始時にはDC-9のような双発機として計画されていたが、実際に航空会社に話を聞いてみると「高地や高温地(エンジンのパワーが出なくなる)に離着陸することを考えると3~4発の方が安心できる」とか言われたり、あるいはカリブ海の横断を考慮(ETOPS的な面で)した結果3発エンジンとなったという逸話がある。
エンジンは新型のターボファンエンジン、プラット・アンド・ホイットニーJT8Dを採用。
特徴的な装備として、ボーディング・ブリッジはおろかタラップ車すら無い小規模な空港での客扱いをするために、機体後部にエアステア(収納式のタラップ)を内蔵している。小規模な空港では使い勝手のいい装備であったが、D.B.クーパー事件の影響で使用が停止された。
(ちなみにD.B.クーパー事件とは、金銭目当てでノースウエスト航空のB727をハイジャックした犯人が金銭を受け取った後後部のエアステアを空中で開き、そこから飛び降りて脱出したというアクション映画さながらの事件である)
低翼配置とT字尾翼、後部に集約されたエンジンや大型の補助翼により高い運動性能を発揮した機体ではあったが、その一方で旧来のプロペラ機よりも降下率も大きく、特にプロペラ機に乗り慣れたパイロットでは降下率を見誤って事故を引き起こすこともあったとかなかったとか。
2000年頃まではアメリカの大手航空会社でも多数の機体を飛ばしていた(アメリカン航空やユナイテッド航空などで当時、各70機程度の保有実績が見られる)。
この頃には先進国で未だ使用される機体向けにハッシュキット(消音装置。エンジン後部などに取り付けてエンジン騒音を減らし、最新の騒音規制をクリアした)を取り付けることで延命を図っていたが、2001年にアメリカ同時多発テロが発生したことで航空需要が低迷。
これを受けて、運用コストが高く老朽化が進んでいた727は一気に退役が進み(そもそも大規模な運休を受けて運用停止→ストアの機体も多かった)、2000年代中頃までには主要国でその姿を見る機会は殆ど失われてしまった。
なお、B727に近い考え方の機体としれは、ヴィッカーズVC-10がある。(VC-10もリアエンジン方式で主翼に強力な高揚力装置を取り付けてSTOL性能を確保し、また(当時としては)強力なターボファンエンジンを4発搭載して高地及び高温地での離着陸時における推力を確保している)
日本では
1960年代半ばから1980年代にかけて、日本の大空に羽ばたいた航空機のひとつであった。
1960年代前半、日本航空(日航)と全日空は、東京-札幌線を中心に、幹線利用客獲得のための凄まじい競争を行っていた。これに対し運輸省は、「日航に比べると全日空はあらゆる意味でひ弱さが目立つ。だから国内線用のジェット機は同じものを買いなさい」と指示。こうして両者はB727を導入することになった(が、実は全日空側は嫌々だったらしい。「B727の製造元は日本を破壊・蹂躙した奴を産み落としたメーカー。そんな会社の機体なんか買いたくない。同じ3発機でもホーカー・シドレートライデントが欲しい」というのが本音だった)。
こうして日航と全日空は1964年1月に揃って発注したのだが、半年足らずの同年5月、全日空はすでに導入していたユナイテッド航空から操縦士3人一組込みで借り受け、東京-札幌線に臨時便用機として投入した(ちなみに自社発注機は1965年3月に到着、4月半ばから東京-大阪線などに投入)。当然ながら日航からは「卑怯者」と罵倒されたが、全日空も「国から国際線用に使うという名目で借金して買ったジェット機を国内線にねじ込んだあなたに言われたくありません」と返している。結果日航はボーイング社に対し納入の前倒しをお願いし、1965年7月にようやく納入してもらえた(8月に路線投入)のだが、これで日航はボーイング社に借りを作ってしまい、ボーイング社が大型旅客機を開発した際、この事をダシにされてしまった
さらに1964年4月に発足した日本国内航空も、東京-千歳線と東京-福岡線開設に備えて2機発注、1966年5月に納入・路線投入を果たしている(先の2路線自体は1965年に、先に購入したコンベア880によって開設されていた)。
ちなみに全日空が導入した際、橋幸夫と吉永小百合によるデュエットソング「そこは青い空だった」がわざわざ作られている。確かにここまでされては日航が(自分がやらかしたこと棚に上げてまでも)キレる訳である。
日本国内航空の機体については、経営難もあって1966年7月、東京-札幌・福岡線の権利(およびコンベア880)ごと日航に貸し出すハメになった。
一方で国内線の需要が(どちらかと言うと)順調に伸びていたことから、全日空は胴体延長型(いわゆる-200型)を採用、1969年にアメリカの航空会社だったパシフィック・サウスウェスト航空から乗員ごと借りて導入した(自社発注機材は1971年から導入)。この-200型(とボーイング737)に置き換わる形で初期型(いわゆる-100型)は1973年までに退役したものの、-200型については国内線ばかりか、地方空港からの国際チャーター便用機材として、全日空の屋台骨を支え続けたのであった。
日航も1969年4月から東京-大阪間の夜間郵便輸送便のためにアメリカのワールド航空から客貨転換型をレンタル(このため昼間は旅客便に使用できる)して飛ばしていたが、伊丹空港の騒音問題の絡みで1974年に夜間郵便輸送便は廃止、機体も返却されている。さらに国内線需要増加に対し日航は国際線で大活躍していたDC-8の胴体延長型(-61)を採用したことから1975年までにほぼお払い箱となってしまった、かと思いきや、新潟-ハバロフスク線や、地方空港からの韓国路線用として2機引き続き保有した。やはり-100型の後継機となった双発エンジンのボーイング737やDC-9では日本海を越えるには不安があったのか?ただし寄る年波には勝てず1987年12月に完全退役している。
ところが日本国内航空が東亜航空を吸収合併する形で誕生した東亜国内航空(TDA)が、日航がDC-8-61を国内線に投入したことでボーイング727が余ってきたことから返してもらうことになった上、羽田空港でお釈迦にしてしまったコンベア880の賠償という形で1機タダで譲ってもらった。それにより1972年4月に東京と九州を結ぶ路線に就航させたものの、エンジン3器・コックピットクルー3人は火の車状態であったTDAにとってはあまりにも厳しいものであったため、エンジン1器・コックピットクルー1人減っても乗せられるお客様の数同じなDC-9-40に置き換わる事となり、1974年に姿を消した。
暗い話になってしまうが、ハイジャック事件や墜落事故(例えば東京湾事故、よど号事件、雫石事件)などの悪い方面でも名を知られた機体であった(まあ、単純に多数の機体が就航していたからこそ、結果的にそのようなアクシデントに巻き込まれる機体も多くなったとも言えるが)。
しかし騒音規制が厳しくなるにつれて徐々に新型機と入れ替わる形で退役が進み、1990年4月27日の羽田-山形線のフライトを持って日本の空から引退したのだった。
ちなみに現在、B727(≒B707)の機体設計を(ほぼ)引き継いだ機体としてはボーイング737があり、またJT8D搭載機としては自衛隊のC-1輸送機が現役で使われている。
関連イラスト
関連タグ
ボーイング737 - (機体設計を含めた)実質的な後継機。
ホーカー・シドレートライデント - ボーイング727に似た形状の旅客機。
VC-10 - 設計や目的などがボーイング727と似ている。