白起
はくき
来歴
紀元前294年、秦の宰相・魏冉(穣侯)から左庶長に抜擢され、韓を攻めた。
紀元前293年、伊闕で韓魏連合軍を打ち破る。敵兵を24万人斬り、さらに5城を落とした。
紀元前292年、大良造(秦軍の総大将)に任じられる。韓の安邑から乾河までの城を抜き、魏を攻めて垣城ほか大小61ヶ所を攻略。和氏の璧事件の後、趙の北辺に侵攻して光狼城など4邑を奪い、邯鄲に圧力を掛ける。
紀元前279年、楚への侵攻に参加し、水攻めによって副都の鄢を落とす。
紀元前278年、楚の首都郢(三国志でいう江陵)を陥落させ王家の陵墓を焼いた。秦は南郡などを手にし、帯甲百万と言われた楚の国力は五分の一に減少。この功により冊封され「武安君」とも称される。
紀元前273年、魏の華陽を攻めて韓・魏・趙の将軍を捕え、13万を斬首。趙の賈偃と戦い趙軍2万を黄河に沈めた。その後も白起に楚を攻めさせる計画があったが、春申君の説得が功を奏し中止。楚は人質として太子完(後の考烈王)と春申君を差し出し、秦と楚はしばらく争うことがなかった。
紀元前265年、范雎が昭襄王に讒言して魏冉を追放させ、宰相になった。
紀元前264年、范雎は「遠交近攻」戦略を打ち出し、白起もこの方針に従い韓・魏を標的とした。韓の陘城を攻め、5城を落とし5万を斬首。
紀元前263年、韓を攻め野王を陥落させ南陽を取った。韓の桓恵王は飛び地となった北部(上党郡)を秦に差し出して和睦。ところが上党の吏民は秦への従属を拒否し、上党守の馮亭が趙に上党を献上。趙の孝成王は平原君の説得でそれを受け入れる事とした。
紀元前262年、昭襄王は王齕の遠征軍を趙に差し向け上党を占領。上党の人々は趙の長平に逃げ込み、王齕はこれを追って趙に攻め入った。孝成王は廉頗を総大将に任命し、長平城の防衛体制を整えさせ、「長平の戦い」が幕を開ける。廉頗は秦軍との直接対決を避けて籠城を徹底し秦軍の疲労を待った。
紀元前260年、2年に亘る廉頗の籠城策により秦軍は疲弊した。そのため、范雎が趙に多数のスパイを放ち、「秦は趙括を恐れている。廉頗は対処しやすい」という偽情報を流した。これを聞いた孝成王は積極策をとらない廉頗に不満を持っていたこともあり、廉頗を解任して趙括を総大将に任命する。群臣は危ぶみ、趙括の母も派遣しないよう嘆願するが聴き容れられなかった。范雎は趙軍総大将の交代を知ると密かに白起を派遣して総大将に任じ、王齕を副将とした。白起は退却すると見せかけて趙軍を誘い出し退路を遮断、更に騎兵で分断するという作戦をとった。趙軍は長平城まで退却し、白起は趙軍と趙の塁壁の間を遮断して糧道を断ち包囲した。趙軍には46日間も兵糧が届かず飢餓に陥り、焦った趙括は手勢を率いて秦軍へ突撃を敢行したが戦死する。残る趙兵20万は降伏したが、秦も総力をほぼ費やし、膨大な捕虜を養う兵糧も、秦に連行する余裕もなかった。白起はこのまま戦果を拡大し、趙を亡ぼすことを狙っていたため捕虜が邪魔だった。降兵は子供を除いて生き埋めにされた(長平では今なお人骨がゴロゴロ見つかる程で、生き埋めは事実であった)。
紀元前259年、昭襄王は白起に再び上党を平定させた。白起は軍を二手にわけ、王齕に皮牢を落とさせ、司馬梗に太原を平定させた。白起がこれ以上の武勲を挙げ発言権を持つことを恐れた范雎は、昭襄王を説いて趙と和議を結び撤兵を指示。白起は自分を登用した魏冉を追放した范雎とは折り合いが悪かった。
紀元前258年、昭襄王は王陵に命じて邯鄲を攻めさせたが落ちなかった(この時、人質だった子楚とその子政が趙人に殺されそうになるが、呂不韋に救われた)。昭襄王が王陵に代わって白起を将軍にしようとしたが白起は断り、范雎が懇請しても辞退し、ついには病気と称し自宅に引き籠った。感情的な問題以前に、君臣が一体となった趙には必死の覚悟がある。今さら攻撃したところで勝てるわけがなかったからである。
紀元前257年、昭襄王は王陵を更迭し王齕に代わらせたが邯鄲は落ちず、秦軍は多大な損害を受けた。白起は王齕の敗戦を「だから言わぬことではない」と批判し、それを聞いた昭襄王は怒り、白起を士卒に落として陰密の地へ移した。
紀元前256年、昭襄王は「白起が陰密へ移る時、恨みがましいところがあった」として爵位を剥奪し、白起に剣を与えて自害を命じ、白起は自刎した。白起の佐将だった司馬靳(司馬錯の孫)も共に死を賜った。『史記』を著した司馬遷は彼の子孫である。
秦の統一への道は白起を欠き頓挫することとなった。
創作のキャラクターとしての白起
キングダム
CV:大西弘祐(ノンクレジット)
秦国六大将軍の筆頭。
すでに自害して故人である。
六大将軍の中でも最もやりづらい正真正銘の怪物と評されている。
長平の戦いにおいて秦軍の総大将を務め、投降した趙兵40万人を全員生き埋めにするという決断を下した人物でもある。
これが原因で、幼少期に人質として趙にいた政が虐げられることになる他、埋められた後に何とか這い上がった万極や同戦争の戦争遺児・遺族で構成される万極軍が、秦の一般人を1万人以上殺害することになる。