江戸幕府第八代将軍。御三家・紀伊徳川家の出身幕府中興の祖とも言われ、名君と称えられる。徳川将軍十五代の中で丁度真ん中に位置する将軍。吉宗以降、紀州徳川家の血統が幕末近くまで将軍家の主流として栄えることとなる。
生涯
貞享元年(1684年)10月21日、紀州徳川家の四男として誕生。本来は紀州藩主の座に就くことはなかったのだが、兄達が子を残さずに次々と死去したことで吉宗が22歳の若さで継承した。
一方で江戸の徳川宗家においても、4代将軍家綱・5代将軍綱吉が共に跡継ぎを儲けられず、この時点で3代将軍家光の男系子孫である徳川綱豊の系統も7代将軍家継が夭折したこととその叔父・松平清武が高齢かつこれもまた跡継ぎがいないことで、将軍後継者がいなくなってしまった。
宗家に跡継ぎがいない場合に対して、御三家から後継を選ぶこととなっていたため、江戸幕府始まって以来の御三家出身将軍として擁立されることとなる。御三家筆頭の尾張家との間で政争があったものの、大奥らの支持もあり享保元年(1716年)8月13日に8代将軍に就任。かの有名な「享保の改革」を行い、揺らぐ幕府の立て直しを断行した。
延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男の家重に譲るが言語不明瞭で政務もまともに執れるような状態ではなかったことから、吉宗が死去するまで大御所として実権を握った。
大御所になって6年後の寛延4年(1751年)6月20日、66歳で死去。死因は脳卒中とされる。
享保の改革
吉宗の将軍就任時の幕府財政は危機的状況であったことから、幕府財政を稀代のケチで知られる初代将軍徳川家康を見習った質素倹約で立直す方針をとり、自らも質素な生活を実践した。また大岡忠相を起用した社会政策、飢饉対策など多くの課題に取り組み成功させた。
この頃には農業の発展により米の流通量が十分に増えており、その値崩れも著しかったため、吉宗はそれまでの米作偏重を改めて菜種、綿花、藍、養蚕、サツマイモ、サトウキビなど飢饉対策作物や商品作物の生産を奨励。これは現金収入が得られる農民達はもちろん、米価低迷に喘ぐ武士たちからも大いに歓迎された。というのは、武士は給料を米でもらうので、米価下落は実質的に賃下げと同じことになってしまうからである。江戸の美化・緑化や行楽地の整備に意を払い、殺風景だった江戸の町を緑したたる美しい街に変えたのも吉宗の功績である。
また、財政改革の一環として増税を断行しているが、 同時に貨幣改鋳による金融緩和政策をとったので反発を抑えることができた。この改革は幕府財政の安定化には大いに役立ったが、幕藩体制の根幹である米本位の経済体制からはついに脱却できず、治世の後期まで米価対策に悩み続けた吉宗は「米将軍」とあだ名されるようになってしまった。
ただ「幕府財政の立て直し」には間違いなく有能な人物だったが、増税と質素倹約により文化の振興は大きく冷え込んだため、日本全体の経済に視点をやると一概にプラスの評価ばかりを下していいものか疑問視する声もある。また、なまじ彼が成功したがために享保の改革が「唯一無二のご政道」として後世でも絶対視されてしまい、貨幣経済への切り替えが遅れてしまった側面もある。後の寛政の改革・天保の改革は基本的には享保の改革の焼き直しであった。重商主義を唱えた田沼意次すら、「倹約」と「殖産興業」の2本柱で財政立て直しを狙うという基本線は吉宗と何ら変わらないものだった(目的を「財政立て直し」に置く限りは、政策の方向性および、上述した他の幕臣達の意向である「唯一無二のご政道」も考えた政治的妥協としてある程度仕方ない面はあるが)。
余談
- 十五代将軍の中でぶっちぎりの最長身であり、当時の平均身長が160代前半だったのに六尺(180㎝)近い堂々たる体躯を持っていた(さすがに「ここまで長身ではなかった」という説もある)。
- 家康同様に武芸達者だったが最も得意なのは怪力を生かした相撲だった。一説には若い時、本職の力士に勝ってしまったとか(事実としても当時の力士にとって重要なタニマチでもある藩主の子息という身分なので、力士が加減をした可能性もあるが、それでも相応に強かったのは確かだろう)。
- 同時代の吉宗とは対照的かつライバル格の人物として、尾張徳川家の第7代当主徳川宗春が有名。質素倹約の最中、派手なパフォーマンスや遊興を好んだ人物であり、最終的には尾張藩の赤字財政を招いて藩主の座を下ろされた事から永らく暗君イメージが定着していた(暴れん坊将軍では別人とも思えるほどに設定が違うが、悪辣な人物と描かれている)。しかし、近年は自由経済と積極財政の重視、領民の安全政策、刑罰の緩和など行ってきた事も注目されており、当時の名古屋は国内屈指の繁栄を謳歌した。財政重視の吉宗とは真逆の領民重視の政治だったと再評価が進んでいる。また、宗春隠居後も吉宗は彼を気遣う書状を幾度となく送っているため、個人関係での対立は無かったと言われる。
- 十代将軍となる孫の徳川家治はかなり甘く、もはや「孫バカ」と言っても差し支えない程だった。肌に悪いからと木綿ではなく、絹を着せる事を認めたり、家治の様子を見るために毎日西の丸へ通い続けたと伝わる。徐々に成長すると家治は利発な性格に育っていったため、息子の家重を差し置いて吉宗は家治に大変な期待を寄せていく。家治に自らが武芸と帝王学を叩きこみ、更には家治体制を盤石にするべく側近候補達にも吉宗自身が教育を施するまで徹底していたとされる。しかし、家重時代から事実上側用人政治が復活しており、家治が将軍に就任しても幕政は側近任せとなり、吉宗の様な将軍親政を行う事はなかった。それでも人物眼には優れ、多くの物事に深い教養と能力を持ち合わせており、名君ではなくとも水準以上の主君へと成長を遂げている。ちなみに家治自身は祖父吉宗を非常に尊敬していた模様であり、吉宗を意識したエピソードが大量に残されている。
- 五代将軍の徳川綱吉を尊敬していたと伝わる。元々吉宗は兄達よりも低い扱いを受けていたとされ(近年では疑問視されているが)、その境遇を気の毒に感じた綱吉により14歳の時に越前国丹生に3万石の領地を与えられている事が影響しているのかもしれない。
- 『暴れん坊将軍』の影響で「徳川吉宗役=松平健」と刷り込まれている人も非常に多く、外国人ですら松平を「syougunyoshimune」と認識している。第1シリーズ『吉宗評判記』では、殺陣で刀を一切使わず相撲で敵を殲滅する回が存在する。
- 「暴れん坊将軍」では、歴代の「爺」から縁談を勧められるくだりがお約束だが、史実の吉宗は将軍就任時既に子持ちである(後継者が既にいたことは彼が将軍に選ばれた大きな要因の一つである)。
- 『大岡越前』での山口崇演じる奔放すぎる人物像が焼きついている人も相当数いるようである。人によってはこの両方を繋げてネタにされる。
- 『八代将軍吉宗』では西田敏行が演じたが、西田と松平は『釣りバカ日誌』でも共演歴があったため『鎌倉殿の13人』で共演した時も繋げてネタにされた。
- 大奥改革の際に「容貌の優れる者は嫁の貰い手があるから」と首にして4割まで減らした話は有名であるが、別にブス専というわけではない。
- 好奇心が強く、洋書の禁を緩めたことで蘭学の発展をもたらした。また、在任中に象の雌雄ペアをベトナムから連れてきた(残念ながら、日本に着いて直ぐに雌が病死、雄も数年後に病死したとされる)。
- 近松門左衛門の影響で心中が流行った際には、心中した死体をあえて晒し物にしたことで知られる。
- 童謡「鞠と殿様」の「紀州の殿様、お国入り」とは吉宗の藩主就任を表している。