概要
創立期
1934年に「バーニー・スピード・ラインズ」の名称で設立、テキサス州エルパソに本社を置いた。
1937年7月に社名をコンチネンタル航空に改め、その年の10月にはコロラド州デンバーに移転した。
発展期
1953年12月にパイオニア航空という航空会社を合併して規模を拡大、1959年には初のジェット旅客機であるボーイング707を導入した。
1963年7月、本社をカリフォルニア州ロサンゼルスに移した。その頃からアメリカ軍のチャーター便を請け負うようになったのだが、その経験などを生かし、1968年に、グアムを本拠地としたエアー・ミクロネシアを設立した。そしてそのエアー・ミクロネシアを通じて、1976年8月には日本乗り入れを果たす。
波乱期
だが1978年に実施された、アメリカの航空自由化政策以後は、大迷走且つ大低迷期に突入してしまう。
テキサス・インターナショナル航空という、倒産寸前の航空会社を、あまりに強引な手法で立て直したフランク・ロレンツォの手によって1981年11月に買収されたのだが、そもそもテキサス・インターナショナル航空の一件もあり従業員は元からこの買収には大反対であった。そして買収が成立したことで、労使関係は当然ながら一気に悪化した。
だがロレンツォは「はいそーですか」と言わんばかりに、テキサス・インターナショナル航空と合併させ、本社をテキサス州ヒューストンに移転させたばかりか、1983年9月には連邦倒産法第11章(いわゆるチャプター11)の適用を申請してしまう。なんとこの会社をつぶしてしまったのだ。これにより、当時働いていた12000人を全員首にした上、自分の言うことを聞く人間のみ再雇用、規模を大幅に縮小して運行を再開した。
1986年にチャプター11の時期を脱している。
絶望期
ところがこれにロレンツォは調子に乗ったようで、自らが設立したニューヨーク・エアに加えて、やはり自らが買収したピープル・エキスプレスと、その関連会社になっていたフロンティア航空を、1987年2月に半ば強引に吸収合併させた。
当然ながら吸収合併させられた3社の従業員はもちろんの事、コンチネンタルの従業員ですらロレンツォのやり方に苛立ちと怒りを募らせ、すっかり仕事にやる気をなくしていた、ばかりか、ロレンツォに殺意を向ける者も少なからずいたという。
これに恐れをなしたロレンツォは1990年8月にコンチネンタル航空を去った。また、同年12月には再びキャプター11を申請した。
だがそれ以後社長に就任する人間はコスト計算ばかり気にする人間ばかりで従業員の給料を安く抑え続けたものだから当然ながら従業員の不満はたまるばかり。
結果サービスは悪化する一方で利用客からは完全に見放される始末。1993年4月に2度目のキャプター11の時期を脱したものの、「またキャプター11申請しなきゃならないだろうな」「それで済めばいいよ。パンナムやイースタン航空みたいになるんじゃないの」という声まで出る有様だった。
奇跡期
だがここにコンチネンタルを救う者が現れた。ゴードン・ベスーンなる人物である。
1994年2月に社長に就任したベスーンは、自らを含めた上層部のゴタゴタを何とか解決させた後、サービスの大幅な改善・コスト計算の大幅な見直し(これまではかなりどんぶり勘定な面があった)・従業員の待遇改善(安月給状態から脱却させる事から始める)などを断行した。
その結果、奇跡か神がかりとしかいいようのない経営再建に成功した。
1998年にはノースウエスト航空と資本・業務提携を行っている。これはデルタ航空からの買収提案を蹴った上でのものである。買収であれば従業員の身分の保障がなされない危険性があったのに対し、資本・業務提携であれば従業員の身分の保障がなされるからである。
こうしてすっかりまともな航空会社に生まれ変わった姿に安心したベスーンは、2004年12月に従業員達から惜しまれつつコンチネンタルを去った。
ちなみに1998年10月にはヒューストンおよびニューアークと成田空港を結ぶ路線を開設している。
終焉
ところが2008年4月、ノースウエストがデルタに吸収合併されてしまう事になった。
それに困ったコンチネンタルは、同年6月にユナイテッド航空と業務提携を行う事になった。そして2010年10月にユナイテッドに事実上吸収合併される形で消滅した。さらに同年12月にはエアー・ミクロネシア改めコンチネンタル・ミクロネシア航空もユナイテッドに吸収合併されたのだった。
なお、吸収合併後も2012年3月3日までは便名にコンチネンタルの名前は残っていた。その一方で、CEO始め役員の多くを合併後のユナイテッドに引き継がせる事に成功したほか、合併後の新塗装もコンチネンタルの塗装が受け継がれた。「名は消えども塗装は消えず」である
日本路線
関連会社のエアー・ミクロネシアを通じてグアム(サイパン経由も含む)までの便が運行されていたが、北は札幌(千歳)から南は那覇まで主だった都市の空港から運行されていた為に『本当にアメリカの航空会社なのか?』と疑うレベルであった。
更に成田空港からグアムに加えて先述の通りニューヨーク(ニューアーク空港)とヒューストンにも乗り入れていた。無論グアム線はエアー・ミクロネシア、あとの2路線はコンチネンタル本体による運行であった。
流石にユナイテッドと合併以降は大部分の地方空港からのグアム発着路線は廃止された。