概要
国籍 | アメリカ合衆国 |
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出身 | ニュージャージー州ペカノック |
生年月日 | 1974年6月26日 |
身長・体重 | 191cm、89kg |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 遊撃手 |
プロ入り | 1992年MLBドラフト1巡目(全体6位) |
経歴 | ニューヨーク・ヤンキース(1995-2014) |
経歴
プロ入り前
ニュージャージー州にて出生。4歳の時にミシガン州へ引越した。ニュージャージーに住むヤンキースファンの祖母や、大学時代に野球でショートを守っていたという父の影響で5歳から野球を始めた。
地元のカラマズー・セントラル高校ではバスケットボールもしていたが、大学からのスカウトが来なかったため野球一本に絞り、高校時代は通算で5割を超える打率を記録。1992年に全体6位でニューヨーク・ヤンキースから指名を受けてプロ入りした。
プロ入り後
1996年からレギュラーに定着し、この年の新人王を獲得。デビューから背番号「2」を与えられており、当初から高く評価されていたことが窺える。
打撃においては右打ちを得意とした。また類まれなリーダーシップを持ち、松井秀喜らもジーターを慕っていた。
また甘いマスクで女性からも人気があった。
ワールドシリーズ制覇5回と輝かしい野球生活を送り、2014年に現役を引退。背番号「2」はヤンキースの永久欠番に指定された。「0」を除けばヤンキース最後の1桁背番号だった。
WBCにも出場経験があり、2006年、2009年に代表として出場している。
選手引退後
2016年にファッションモデルのハンナ・デイヴィスと結婚した。
2017年にマイアミ・マーリンズの買収に参加。球団CEO(最高経営責任者)の座に就いた。
常勝球団であるヤンキースの主将を務めた実績から、マーリンズの立て直しを期待されたが、いつまでもタンキング(ドラフト上位指名権獲得争いの為にわざと負ける行為)を行なう球団の体質に嫌気が差したのか2022年2月28日にマーリンズCEOの座を退いた。
選手引退後、ミシガン州のスポーツ殿堂にノミネートされたが、式典をドタキャンしたため殿堂入りがお預けになったことがある。これは決して「州単位のみみっちい肩書なんてイラネ!」という感情的なものではなく、多忙なスケジュールと悪天候が重なり式典当日までに現地へ行くための航空便を確保出来なかったことに起因する。
満票殿堂入りならず
2020年には資格1年目でアメリカ野球殿堂入りを果たす。選手時代から殿堂入り自体は既に確実視されていたため、マリアーノ・リヴェラ氏に続く史上2人目の満票を得られるのかが注目されたが、ジーター氏に投票しなかった記者が1人のみいたため、最終的に99.7%の得票率となってしまい、快挙とはならなかった。
ヤンキース歴代生え抜きキャプテンのなかでも人格者と謳われるほどファンや関係者から慕われているジーター氏本人は殿堂入りできたことにすっかり満足しており、満票には大して拘っていなかった。むしろ、彼の満票殿堂入りを一日千秋な想いで待ち焦がれていたニューヨークメディアやヤンキースファンが必要以上に激昂し暴走しまくっていた。それが高じて、彼に一票を投じなかったたったひとりの記者の犯人捜しをアメリカ中で躍起になって行われるほどの社会現象となってしまった。
満票殿堂入りにならなかった理由は、恐らく通算3465安打に対して通算260本塁打と本塁打数が相対的にあまり多くなく、本塁打数に対して通算OPSも.817と相対的にあまり高くなかったことから(松井秀喜氏同様、彼本人も自分は長距離打者ではなく中距離打者のアヴェレイジヒッターであると自虐的に語っている)、ケチが付いてしまったのではないのかと考察されている(惜しむらくは、せめて最低でも300本塁打、OPS.880以上なら数字的に見栄えが良くなり、満票殿堂入りも夢ではなかったとメジャー関係者から囁かれている)。
デレク・ジーターMLBヒストリー
関連記事
- メジャーリーガー
- 遊撃手
- ニューヨーク・ヤンキース(選手時代の所属球団)
- マイアミ・マーリンズ(選手引退後に経営に参加していた球団)
- 石橋貴明(テレビ企画リアル野球BANにてよく「デレク・ジーター打法」と称して彼のバッティングフォームを真似ていた)