概要
主な勝ち鞍はダービーステークス(1896年)、セントレジャーステークス(1896年)、アスコットゴールドカップ(1897年)など。エドワード皇太子所有馬として初のダービーステークス制覇を成し遂げた。
種牡馬としては4回のリーディングサイアーを獲得。
プロフィール
略歴
1893年
4月15日、エドワード皇太子所有のサンドリンガム王立牧場(ノーフォーク州)で誕生。雄大で端正な馬体だった。
父は気性難エピソードで知られる大種牡馬セントサイモンだったが、父や全弟ダイヤモンドジュビリーと違って大人しかった。
母のパーディタはフロリゼルやダイヤモンドジュビリーを産むなど素晴らしい繁殖成績だった。母父のハンプトンは名ステイヤーとして知られながら障害レースにも出走していた。
エドワード皇太子の専属調教師リチャード・マーシュに預けられた。
1895年
6月、アスコット競馬場のコヴェントリーステークスでデビューし1着。そのスピードからクラシック三冠の有力候補として注目される。
7月、グッドウッド競馬場のリッチモンドステークスに出走し1着。風邪で体調を崩し休養に入る。
10月、ニューマーケット競馬場のミドルパークステークスで復帰。ライバルとなる同父のセントフラスキンの3着に敗れた。
1896年
4月、体調不良が続き、2000ギニーステークスは回避となった。
6月3日、エプソム競馬場のダービーステークスに出走。最終直線でセントフラスキンとの激しい叩き合いとなったが、首差で1着。皇太子所有馬がダービーを制したのは108年ぶりで、コース上に興奮した観衆達がなだれ込むニュース映画が残っている。
7月、ニューマーケット競馬場のプリンスオブウェールズステークスに出走し、半馬身差でセントフラスキンの2着に敗れた。セントフラスキンはレース後、故障・引退となり、最後の対決となった。
9月、ドンカスター競馬場のセントレジャーステークスに出走し1着。二冠馬となる。
10月、ニューマーケット競馬場のジョッキークラブステークスに出走し1着。
1897年
6月、アスコット競馬場のアスコットゴールドカップに出走し1着。8馬身差の圧勝だった。
7月、サンダウン競馬場のエクリプスステークスに出走し1着。しかし142ポンドの斤量がこたえたのか、足元の不安で次走のグッドウッドカップを回避して休養に入る。
10月、復帰できないまま現役引退となる。
1898年
サンドリンガム王立牧場に帰って種牡馬となる。
1901年
初年度産駒がデビュー。チアーズ(エクリプスステークス勝ち馬)、セプター(イギリス三冠馬)などが活躍した。
1902年
父セントサイモンからリーディングサイアーの座を奪う。その後も1906年・1908年・1912年と4度の英愛リーディングを獲得し、セントフラスキンとは種牡馬としてもしのぎを削った。
1908年
1月、馬房で脚を滑らせ転倒し、骨盤と大腿骨を骨折。
2月18日、安楽死の措置が執られた(15歳)。
主な産駒
チアーズ セプター ジンファンデル キーストーン ワディハーフ ユアマジェスティ ペロラ プリンスパラタイン