概要
ヒルマンミンクス(Hillman Minx)とはかつていすゞ自動車がイギリスのルーツ自動車と提携し、CKD(完全ノックダウン生産)で1953年から1964年まで製造販売していた自動車である。
ラインナップには4ドアセダンでスーパーデラックス、スタンダードの他に、2ドアのライトバン(ワゴン型)であるヒルマンエキスプレスがあった。
日本では「ヒルマンミンクス」と続けて称されることも多いが、「ヒルマン」は元は独立メーカーの社名で、ルーツグループ傘下に入った後は同社の大衆車から中級車ブランドとなっていた。お転婆娘を意味する「ミンクス」はヒルマンの車種のネームとして1931年から40年近くにわたって用いられた伝統ある車名であり、日本にも戦前から輸入されていた。
歴史
戦後の日本の自動車産業
第2次世界大戦後の国産乗用車生産の歴史は、1949(昭和24)年10月に発表された乗用車生産の全面解禁から始まった。ただ戦前には国産量産乗用車など、ダットサンやオオタ自動車以外には存在しなかった日本の自動車工業界にとって、ここから乗用車生産の歴史が始まったといっても過言ではない。
続いて1951年、それまで厳しく禁止されていた在日外国人所有の外国車の日本人への譲渡が許されるようになり、翌1952年には新車の輸入も限定的ながら許可された。その結果、国産乗用車メーカー各社は、日本の国土にマッチした乗用車の開発と同時に、国際競争力をも身に付ける必要に迫られることとなったのである。これに加えて欧米諸国の自動車会社は日本で自動車を販売したいと切望しており、1952 年 4 月までに、ルーツ、ルノー、スタンダード、オペル、フィアット、クライスラーの6社が日本市場調査研究を実施した。1952年6月、通商産業省は外国メーカーの参入に関する方針を発表した。「日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれ程完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない」と外国のレポートに書かれる程の凄まじい道路状況から考えて大型の米国車より小型の欧州車が望ましいこと、 各メーカー当たり(年間)1200台の自動車を許可できるのに十分な外貨のみを割り当てるのが条件だった。
通商産業省は 1952年10月に次のようなさらなる政策声明を追加した。
・外資による販売事業は認められない。
・地元産業の発展に貢献する場合には、外資による生産が認められる。
・ロイヤルティと特許料の送金は保証する。
・技術協定締結から5年以内に部品の90%を国内生産すること。
・外国車の製造権は国内企業に譲渡しなければならない。
この声明を受けてトヨタとプリンス自動車は純国産の道を選んだが、日産、日野、新三菱重工、いすゞは海外メーカーの製品を取りあえずノックダウン生産することで基礎技術力の習得に努めることとなった。ノックダウン生産とは、部品を現地で組立てて完成品とする方式である。
先陣に立ったのは新三菱重工で、戦時標準船のリバティ船で有名なヘンリー・J・カイザーが設立したカイザー=フレイザー社の乗用車ヘンリーJを1951年からライセンス生産した。だが本家がヘンリーJ含め不振だった乗用車生産から撤退し、ウイリス・オーバーランド社と合併してジープ生産主体に移行した事や、2ドアセダンであったためタクシーとして使えない等の理由で1954年9月に509台生産したところで打ち切りとなった。商業的には成功しなかったが、三菱はこの提携による生産で、日産やトヨペットなどの架装に供給していた乗用車ボディのプレスや塗装の技術を向上させ、少数ではあるがタイや当時アメリカ領だった沖縄にも輸出した。
いすゞはルーツ社と1953年2月にいすゞ・ルーツ技術協定を結び、ルーツ社のミドルクラスセダンに相当していたヒルマンミンクス・マークVを生産することになった。イギリスではオーソドックスな4ドアセダンボディに1265ccの旧式の直列4気筒サイドバルブエンジンを搭載していたファミリーセダンという認識であったが、戦争を何とか生き永らえたダットサンやオースチン7等の小型車が多かった日本では十分に高級車の雰囲気を醸し出していた。1953年10月25日、英国から輸入された部品で日本最初に製造したヒルマンミンクスが、いすゞ大森工場の組立ラインから出荷した。
完全ノックダウン生産までの道
いすゞ・ルーツ技術協定の条件に基づき、いすゞは輸入部品の組み立てから現地生産に移行する必要があった。当初(1953年10月)、日本製の部品を使用していたのはタイヤとチューブ、バッテリーのみで車両価格の6パーセントに過ぎなかった。1954年にはこの比率は18パーセントまで向上し、1956年にはエンジンとトランスミッションが国内生産部品に切り替わり50パーセントを超えた。この年の2月にモデルチェンジしたが、1957年には、主要な車体コンポーネントはその割合を100パーセントとして現地で製造出来るようになった。最初のいすゞヒルマンがCKDラインからロールオフしてから 4年後の1957年10月28日、すべて日本製の部品を使用した最初のヒルマンミンクスが完成した。
2代目いすゞ・ヒルマンミンクス
前述した通り1956年2月にヒルマンミンクスはモデルチェンジした。著名なデザイナーのレイモンド・ローウィによるスタイリングで知られるこのモデルは、エンジンも改良が進めて低回転域のトルクを増したことで、扱いやすさが向上した。
後部座席がやや狭いといった弱点はあるものの、低速から扱いやすい点や、品の良いスタイリングによって当時のオーナードライバーからの人気が高く、車格上の後継モデルとなるベレルや、ベレットがそれぞれいすゞの自社開発で登場した後も1964年まで長期にわたって生産された。
いすゞの生産工程における品質管理水準は相当高度になっていたようで、1958年4月に訪日した際にいすゞ製ミンクスを実見したイギリスの自動車評論家ロナルド・バーカーは、イギリス本国製のミンクスと比較して「日本製の方が細部の仕上げとたてつけがよいように見受けられた」と後年記述している。
事実、1960年以降はスタイリングこそあまり手は入れられなかったが、エンジンはかなり手を入れており、同排気量ではイギリス本国産を上回る馬力を発揮した。
1962年に後続となるベレルが発売されたが、初期トラブルが頻発したことや後発メーカーゆえの販売力の弱さもあいまって、自家用車としては先発のトヨペット・クラウン、日産・セドリック、プリンス・グロリアのような人気は得られなかった為、既に旧式化していたがオーナードライバー需要方面では、ヒルマンミンクスへの信頼が厚く根強く売れ続けたため2年間継続生産され1964年4月まで生産は続いた。総生産台数5万7729台。その9割は2代目だった。