フォッカー・アインデッカー
せかいはつのほんかくどっぐふぁいたー
フォッカー・アインデッカー(Fokker Eindecker)は、第一次世界大戦期のドイツ軍で運用された単葉戦闘機。
アインデッカーはドイツ語で単葉機(翼が1枚ずつ1対の航空機)を意味する。
ドッグファイトを前提に開発された史上初の戦闘機で、その革新性と高性能で以て西部戦線の空を数か月間にわたり支配。
英仏パイロットにとって悪夢のような『フォッカーの懲罰』をもたらした。
なお、アインデッカーは『史上初の戦闘機』ではないという点に注意。アインデッカー以前に後述のとあるフランス機が実用化していたのだ。
史上初の総力戦となった第一次世界大戦では様々な最新技術が戦争に導入されることとなり、その中にはライト兄弟が1903年に初飛行させた航空機もあった。
当初、軍隊に導入された航空機、すなわち軍用機は偵察に用いられた。飛行中、時たま敵側の偵察機と遭遇することもあったが、武装の一切を有さないが故に交戦すらも無かったという。
しかし、戦争の長期化と共に『敵による航空偵察の許容=陸戦での敗北に直結』という事実が決定的となるにつれ、自軍機が敵機と遭遇した際にこれを撃墜する必要性が生じた。
最初、それは拳銃で互いを銃撃しあうような簡易的なものだったが、やがて本格的な撃墜のため機関銃を旋回銃座に備え付けた機体が登場。
しかし、そのような機は機銃の操作要員、およびその専用席を追加で必要とするなどのために空気抵抗や重量が増加、性能不足となる問題に悩まされた。
そのような状況を覆したのがフランス人パイロットのローラン・ギャロス。
『機体の進行方向と同じ向きに機銃を固定』という発想に基づく新型機・モラーヌ・ソルニエLの開発を推進し自身これに搭乗、1915年4月1日と15日、18日に敵機1機ずつ計3機を撃墜するという、当時としては異例の大戦果を挙げた。
ただ、モラーヌ・ソルニエLには「機銃弾が当たっても破損しないようプロペラに増加装甲」というゴリ押し的設計があり、これが機体性能の低下を招くという欠点があった。
1915年4月18日、ギャロスのモラーヌ・ソルニエLはエンジントラブルで不時着。
そこがドイツ占領地域だったことから搭乗していたギャロスは捕虜となり、更に機体は鹵獲されてしまった。
そして5月、モラーヌ・ソルニエLから着想を得たともいわれるフォッカー・アインデッカー試作機が初飛行に成功。
アインデッカーは弾丸がプロペラへ命中することを防ぐため、プロペラ回転に合わせて発射のタイミングを調整する『同調装置』を軍用機史上で初めて搭載しており、これにより機体性能の低下を最小限に留めつつの機銃装備を可能としていた。
アインデッカーの実戦配備は1915年6月から始まり、7月1日に発起した初の実戦で因縁のモラーヌ・ソルニエLと交戦、これを撃墜。
以降、英仏が十分な数の新型機を揃える1916年ごろまで性能不足の英仏軍用機を圧倒、半ば一方的に撃墜し続け、このような英仏軍にとっての惨劇は『フォッカーの懲罰』(Fokker's Scourge)として当時を戦ったパイロットらに強く記憶された。
...そして1918年6月、フォッカーの新型機が再び『懲罰』をもたらす...。
- インメルマンの愛機
『インメルマンターン』の空戦機動を編み出したことで知られるエースパイロット・マックス・インメルマンはこの機体でエースとなり、そして最期を迎えた。
- ドイツ製?
『ドイツの工場で作られた』という意味ならドイツ製だが、アインデッカーの設計・開発を担当したのはオランダ企業のフォッカー社だったりする。
- ギャロスのその後
あえなくドイツの捕虜となったギャロスだったが、3年後の1918年に収容所から脱走して帰還。
名誉あるフランス軍パイロットとしてスパッドS.XIIIに搭乗、再び戦場に身を投じ、1918年10月2日に2機撃墜の戦果を挙げるも、そのわずか3日後に最期を迎えた。
最新鋭フォッカー戦闘機との空戦に敗れて撃墜されたとされており、それは彼が30歳となる誕生日の1日前、そして大戦が事実上の終結を迎えるわずか1か月前のことだった。