ランコ・ポポヴィッチ
らんこぽぽゔぃっち
1967年6月26日生まれ。
ユーゴスラビア・コソボ・メトヒヤ自治州のペチ出身。
1980年に生家の土地を接収され、1981年に父を亡くすという環境の中.肉体労働で家計を助けながら学校へ通いサッカーを続けた。FKブドゥチノスト・ペチでユース年代を過ごし、ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ(1部リーグ)のパルチザン・ベオグラードでリーグ戦デビューを果たす。
その後はユーゴスラビアのFKレオタル・トレビニェ、FKスパルタク・スボティツァに在籍したが、紛争の影響から海外にプレーの場を求め、ギリシャ・アルファ・エスニキ(1部)のエスニコスOFPF、スペイン・セグンダ・ディビシオン(2部リーグ)のアルメリアCFとチームを転々とした。
1997年からオーストリア・ブンデスリーガ(1部リーグ)のSKシュトゥルム・グラーツに移籍。フランコ・フォーダ、ダルコ・ミラニッチと3バックを組み、フォアリベロとして攻撃の起点を担った。1997/98、1998/99シーズンにリーグ連覇、3大会連続でUEFAチャンピオンズリーグに出場。グラーツでは「30歳から一番力が伸び、34歳でベストゲームを戦えた」と充実した時を過ごすも、坐骨神経痛を抱えながらのプレーを強いられていた。
2001年からライプニッツ郡にあるオーストリア・ランデスリーガ(4部リーグ)のTuS FCアルヌ・フェリスでプレーイングマネージャー、2002年から監督に専念し、同シーズンには優勝。
2004年からパクヘリフで指導経験を積む。2006年6月、ミハイロ・ペトロヴィッチのJリーグ・サンフレッチェ広島監督就任に伴いコーチとして訪日。
翌2007年10月に退団し、FKスパルタク・ズラティボル・ヴォダ監督に就任。同シーズンにはヴォイヴォディナ地域リーグ(セルビア3部)優勝、プルヴァ・リーガ(同2部)への昇格を果たした。翌2009年にはスーペルリーガ(同1部)昇格を達成。
2009年7月、大分トリニータを解任されたペリクレス・シャムスカ監督の後任として同クラブの指揮を執ることが発表された。就任当初は戦術が浸透せず4連敗し、シャムスカ時代の成績もあってJ1で最初に降格決定してしまうが、後半戦に入って持ち直し、終盤10試合を負けなしで終えた。
J1残留こそ果たせなかったものの、劇的にチームを立て直した功績から留任が内定していたが、同年末、大分に10億円以上の債務超過をはじめとする深刻な経営難が発覚。全ての資金運営にJリーグの監視が入る状況下で、通訳なども含めたポポヴィッチへの高い人件費が問題視された。ポポヴィッチ自身は自ら減俸を申し出てまで続投を望んだが、同年12月11日に契約非更新が発表された。
2011年シーズンから当時JFL所属のFC町田ゼルビア監督に就任した。目標であるJ2昇格圏内入りを果たし、同年限りで退任。
2012年シーズンからFC東京監督に就任。クラブ初となるAFCチャンピオンズリーグでの戦いに臨み、ベスト16に入った。攻撃的サッカーを徹底して貫く姿勢はクラブ首脳陣から高く評価され、2013年には同クラブでのJ1における過去最多得点を挙げたが、勝ち点の取りこぼしから優勝争いに加われず、同年限りで退任。
2014年、セレッソ大阪の監督に就任。代表選手を揃え大きな注目を集める中、従来採用されてきたカウンターからポゼッションへと攻撃の転換を図ったが次第に勝利から遠ざかり、AFCチャンピオンズリーグではベスト16、リーグ戦では第14節終了時点で13位と低迷。クラブ首脳から「ポゼッション率が上がったのに面白くない」と批判を受け、期待する選手の個人名を出しメディアの前で厳しく叱責するというC大阪以前から用いてきた手法[24] についても問題視されたために6月のリーグ中断期間に入って解任された。
同年11月、レアル・サラゴサの監督に就任。財政難のため保有選手数を制限され、カンテラ所属の選手を登用せざるを得ない状況下ながらボルハ・ゴンサレスの得点量産もあって上位進出に成功。昇格プレーオフに持ち込むも、アウェーゴール差で決勝戦に敗れ1部復帰を逃した。翌2015-16シーズンも留任しFC東京及びC大阪で指導した長谷川アーリアジャスールを呼び寄せる。第12節終了時には2位にまで順位を上げたが、2015年12月の同18節に昇格圏を外れ、即座に契約解除となった(事実上の解任)。
2016年8月、ブリーラム・ユナイテッドFC監督に就任。
2017年9月25日、FCプネー・シティの監督に就任した。
2020年より町田の監督に就任すると発表された[36]。2022年7月2日のベガルタ仙台戦の前半36分に大坪博和主審からイエローカードを提示されて累積警告4枚目となり、Jリーグの監督では珍しい累積警告による1試合のベンチ入り禁止という珍事が起きた。
2024年より鹿島アントラーズの監督に就任した。町田時代と同様、通訳は塚田貴志が担当する。