加藤秀司
かとうひでじ
1948年5月24日生まれ。加藤 英司(読み同じ)の登録名での活動していた時期あり。
地元の中学校からPL学園高校、さらには松下電器を経て1968年ドラフトで阪急ブレーブスから2位指名を受け入団。
松下電器時代には、富士製鉄広畑(兵庫県姫路市、現在の日本製鉄広畑)の補強という格好で都市対抗野球に出場、富士製鉄広畑の優勝に貢献している。
実は、阪急から指名する以前に東映フライヤーズや南海ホークスからも指名を受けたことがあったが、いずれも断っている。
入団当初、プロのあまりにもの練習量に唖然とし、「あれに無理に付いていったら体持たんわ」と思った結果、1年ほどはじっくり慣らしていこうと決意した(のだが、その年の7月には1軍の試合に出させてもらえたそうな)。
1973年は打率.337で首位打者を獲得。
1975年は32本塁打、97打点(打点王)で、パ・リーグMVPに選出される。日本シリーズでも広島東洋カープを降し、念願の日本一に到達。この頃は3番加藤秀、4番長池徳士の打順が定番であった。
1976年には2年連続の打点王を獲得。
1977年までダイヤモンドグラブ賞を3年連続で受賞した。
1979年に登録名を加藤 英司に変更する。その年には首位打者(打率.364)と打点王(104打点)を獲得している。
1982年オフ、水谷実雄とのトレードで広島に移籍。こうして迎えた1983年、シーズン序盤こそ調子が良かったものの、肝炎を患ってしまうなどで一時リタイヤするハメになってしまった。しかもPL学園の後輩である小早川毅彦が入団したこともあり、その年のオフに近鉄バファローズへの移籍を余儀なくされてしまう。
近鉄に移籍した1984年は主に指名打者として130試合出場し、打率.253・14本塁打の成績を残した。 1985年も指名打者として打率.286・26本塁打。
1986年に読売ジャイアンツに金銭トレードにて移籍。だがここでは代打での起用に止まってしまい、その年のオフに自由契約となってしまった。だが、恩師であった西本幸雄が、立教大学の後輩で当時南海の監督だった杉浦忠に仲介した事で南海へ移籍。
1987年5月7日の大阪球場での対阪急戦で2,000本安打を達成。同年限りで現役引退。
引退後、コーチや野球解説者として活躍した。
日本ハムファイターズ (1995 - 1997)
オリックス・ブルーウェーブ
オリックス・バファローズ (2003 - 2005)
履正社学園
大阪ガス
中日ドラゴンズ (2016 - 2017)
芦屋大学インパルス
関西独立リーグ選抜チーム
同期の福本豊とは松下電器時代からの付き合いであったが、実は加藤秀司の獲得を狙っていた阪急が、「ついでにこの足の速い奴も獲ったろ」という事で福本にも目を付けたのであった。故に福本は「あいつが松下にいたおかげで、ワシも阪急に入れた」と言う主旨の感謝の言葉を自らの著書で記したことがある。
元々守備が苦手であったため、阪急に入団したあと、松下の監督は、「ブレーブスはあいつにどこ守らせるつもりなんや!?」とあきれたそうである。
ニックネームは「チャ」、または「加トちゃん」。言わずと知れたあのお笑い界のスーパースターのひとりにあやかってのものである。