概要
村上源氏久我流。源通親の同母弟である奨学院別当唐橋通資の子。
経歴
姉妹に後鳥羽院の異母兄惟明親王の妻、娘に安嘉門院に仕えた女房がいる。
安貞元年(1227)8月頃、人妻とのスキャンダルが原因で官職を解かれる。これ以降、彼は長年にわたり蔵人頭任官を熱望するようになる。
建保年間(1213~19)には京都に居たが、遅くとも寛喜年間(1229~32)には鎌倉に下向している。
嘉禄年間(1225~1227)、北条義時の子女と結婚している。この娘の母は義時後室伊賀の方で、元々一条実雅に嫁いでいたが、実雅が伊賀氏の変に連座して配流されたことで離別し、通時と再婚した。
関東祗候廷臣という立場を得た彼は、鎌倉に長期滞在していたようで、その住居は、大倉観音堂西辺を火元とする火災で彼の自宅が延焼したとの『吾妻鏡』の記述から、大倉の北条義時旧宅付近に屋敷を構えて住んでいたと考えられる(『吾妻鏡』寛喜三年正月十四日条)。
同年、鎌倉長期滞在が原因で昇殿を停止される(『明月記』寛喜三年七月三日)。湯山学氏は、この事例から「関東祗候廷臣も公家である以上、朝廷に勤仕する義務があり、その義務を長年の鎌倉在住によって欠く場合は昇殿を停止される場合があった」と論じている(湯山学「関東祗候の廷臣」『相模国の中世史』p3-43)。鈴木芳道によると、通時の鎌倉下向は任官の望みも叶わず、幕府有力者との公武婚に依存した関東在住であったため、無断欠勤と見做されたのだとしており((鈴木芳道「村上源氏の公武婚」))、関東に長期滞在していても幕府に正式に出仕している場合は、朝廷に勤仕しているのと同様で処罰対象には成らないと考えられる。現に、土御門顕方など、鎌倉に定住しつつも幕府に出仕している貴族は、昇殿停止等の処罰を受けていない。
寛喜三年(1231)頃、北条実泰女子と結婚したとする説があるが(『北条氏系図考証』)、不確定である。もしこの結婚が事実であれば、推定40歳差の年の差婚となるため、息子通清との史料混同の可能性がある。とは言え、学問に長けた通時が、幼少期の北条実時の家庭教師的な仕事をしていたとの想像も無理ではない(鈴木芳道「村上源氏の公武婚」)。
天福元年(1233)11月に鎌倉で死去。同年12月に通時の蔵人頭任官が決まり、姪の惟明親王王女は鎌倉の通時に任官を知らせる音信を送ったが、任官の知らせを受け取る前に既に通時は死亡していた。
通時は北条泰時外舅の三浦義村から官途昇進の推薦を受けていたが、遂に通時が公卿に列せられることは無かった。
湯山学の研究によると、彼の子孫は代々、幕府滅亡まで歴代の鎌倉将軍家に勤仕しており、関東祗候廷臣としての村上源氏の研究上重要な存在と目されている。