概要
大河氏は出羽国秋田郡を拠点とする豪族で、郡衙の支配権を継承する領主であった。兼任は奥州藤原氏配下の武将であったが、文治5年(1189)9月に主家藤原氏が源頼朝に滅ぼされた。その翌年正月、出羽国の仙北地方および秋田郡方面で反乱が起こると、兼任はその指導者となった。多賀国府を根拠地とし、鎌倉まで攻め入る計画を立て、出羽地方の要害である秋田城を目指した。
秋田方面に進軍した反乱軍は、幕府の代官由利維平を殺害した。維平もまた兼任と同じ奥州藤原氏の家臣であったが、主家滅亡後幕府に捉えられたが(この時尋問を担当した梶原景時の態度を無礼として毅然と反抗している)、能力を買われたのか赦免され、御家人となっていたため、幕府の手先として血祭りにあげられたのである。
また津軽方面では奥州合戦の大将の一人であった有力御家人の宇佐美実政(奥州合戦では由利維平を捕えた)を殺害した。
幕府では、再び御家人に出動を命じ、海道は千葉常胤、山道は比企能員を大将とした。
秋田城を目指す兼任であったが、八郎潟を渡ろうとしたところ、氷が突然割れて五千人の兵士が溺死した。
兼任は一万の軍勢を組織し直して、平泉方面に向かったが、足利義兼・長沼宗政・結城朝光・葛西清重らに攻められて、軍勢は散り散りになった。兼任はただひとり栗原寺に隠れていたところを、木こりにあやしまれ殺された。こうして2ヶ月に及ぶ戦争は終結した。
兼任の反乱の目的は、倒幕ではなく、主権藤原氏を滅ぼした頼朝らの勢力に一矢報いるものであった。当時の価値観として、戦乱で没落した氏族の残党が、主君の遺恨を晴らすために大規模な反乱を起こすのは一般的ではなく、兼任の行動は本人が掲げるように「史上はじめての弔い合戦」であった。実際兼任目線で見た裏切り者や主君の敵の一味を殺すことには成功しており、そういう意味では目的を一部達成しているといえよう。
しかし結果的にはこの乱により、陸奥に幕府の留守職が設置されるなど、幕府の東北支配はさらに組織的に強化されていくこととなった。
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