女性の司祭。priestess(プリーステスもしくはプリエステス)。
キリスト教の女性司祭
キリスト教における女性の司祭は、日本語媒体では「女性司祭」と呼ばれることが多い(牧師の場合も「女性牧師」と呼ばれ、「女牧師」という表記が使われる事はかなり稀である)。英語では「woman priest」という表記がなされる。
なお、旧約聖書に登場し、日本語訳では「祭司」と表記される古代イスラエルの役職も、英訳では同じくpriest表記であるが、旧約聖書に女性の祭司は登場していない。
ローマ帝国によるエルサレム神殿の破壊と共にこの場所での祭儀・儀礼と結びついた役職である祭司の伝統は断絶している。そのため、神殿なしで成立する宗教として展開したユダヤ教において、女性のラビは存在しても、女性祭司は存在しない。
イエスによる開教後、キリスト教もまた前身であるユダヤ教と同様に、宗教儀礼を執り行う宗教者のポジションを信仰者共同体(エクレシア、教会)の中におくことになった。
そして(当時の周囲の古代多神教と異なり)その役職に女性がつくことはなかった。……とカトリック、正教会、非カルケドン派の諸教会は語る。
近代に入り、フェミニズムの影響もあって改革がとなえられるまで、長い間女性司祭は存在しなかった。
これはカトリックから独立した聖公会もそうであり、司祭、聖職者をもたないプロテスタント諸派においても、女性教役者、女性牧師、女性監督がみられるようになったのは近代以降である。
女性がキリスト教司祭になれないとされる理由
司祭は彼等が執り行う宗教儀礼と深く結びついており、そのうちのいくつかは新約聖書に由来するとされている。
カトリックにおいてミサ、正教会において聖体礼儀と呼ばれる、「キリストのからだ」と見なされる聖体パンを一般信徒に分け与える儀礼は、福音書の「最後の晩餐」のシーンに由来するとされる。
シーンの詳細については聖体の項に譲るが、この場において参加したのは男性信徒のみである。イスカリオテのユダすら居る場に、彼と違って裏切る気もない女性信徒が居合わせてもいない。
司祭が執り行う宗教儀礼を伝授する場に女性が呼ばれていない、これは女性が司祭になれない、ということだ、という訳である。
他に理由として挙げられているのは「イエスが男性であること」である。司祭はミサや聖体儀礼と呼ばれる宗教儀式において司祭は「キリストをかたどる」とされている。女性は男性であるキリストをかたどることができない。
女性司祭叙任の流れ
女性を司祭とする動き自体は古代から存在したが、現在主流派・伝統派とされるグループにおいては拒絶がなされてきた。ローマのヒュッポリュトスのような教父(キリスト教著述家)たちは女性が司祭になれるという考えや司祭の役職を行い得るという考えを退ける。そしてそうした事を可能とする「異端」に対して激しい非難の言葉を残してもいる(エイレナイオス『異端反駁』、マルクスという指導者が率いる教団について)。このテーマは公会議でも取り上げられるに至っている(第一回ニカイア公会議、ラオディキア公会議)。
キリスト教には教会は聖霊に導かれる、という考えがあり、こうした教父や公会議を擁する伝統においては、そこに現われた論は「聖伝」を構成するものとされ、聖典である聖書の解釈を左右する。
つまり、聖伝を支持する限り、女性司祭の叙階は不可能である。
が、聖伝とされる各論者の主張や教会文書の記述を相対化する場合には、可能になる。「女性は司祭になれない」は新約聖書に直接明記されているわけでは無い。イエスの十二使徒の任命にせよ、最後の晩餐に男性しか呼んでいない事にせよ、その理由付けはイエス本人の口から明言されているわけではない。
教父たちや公会議に集まった人々や教会文書が、女性司祭は無理、と言ったのが本人達の女性差別意識ゆえ、とみるなら、彼等の主張を退けることは可能である。それは神の御心ではないのだから。そして、純粋に能力だけをみるなら、女性が司祭をつとめても何ら支障はない。女性同士でしか言いにくい事も相談しやすく、また司祭のなり手不足へのアシストという需要も存在する。
聖公会の本場・源流であるイングランド国教会では1994年に女性司祭が任命された。他国の聖公会グループもこれに続いているが、同じ聖公会でも認めないグループも存在する。女性司祭問題をきっかけに聖公会からカトリックに改宗する人もいる。
司祭がいる他教派ではまだ公式に認められていないが、カトリック教会内にも既に女性司祭叙階を求める個人やグループが存在し、活動している。