施餓鬼
せがき
仏教の主要な法要の一つ。
餓鬼道に堕ちた亡者を筆頭に、不浄霊・無縁仏・地獄の亡者など、死して未だ浮かばれない霊位を慰撫し、彼らに飲食(おんじき)を供えて苦を救い取るための儀式である。
「餓鬼棚(がきだな)」と呼ばれる木組みの祭壇を組み上げ、そこに様々な供え物を捧げる。
そして僧侶によって経典と真言が誦み上げられ、餓鬼の飲食を可能にし、また参詣者の祖霊、順わぬ無縁仏たち、地獄の亡者たちに祈りを捧げ、苦を脱して極楽往生することを願う。
宗旨によって開催する時期と回数に違いはあるが、概ね7月15日から8月15日に前後する。
これを十方世界全てに向けたものと意味を込め、法界供養施餓鬼と称する。
また春と秋の彼岸の頃に催すものもあり、こちらは先祖供養を目的として各寺の過去帳や位牌の霊位を供養するという意味で永代祠堂施餓鬼と称する。
また童子霊や水子霊の供養を目的とした地蔵盆という派生もある。
由来
もっとも有名なのは、釈迦十大弟子の通力随一と謳われた「目建蓮(モッガラーナ)」の母の逸話である。
ある時、目建蓮はふと亡くなった母が気になり、神通力(仏教ではいわゆる千里眼に当たる超能力)で母の行方を追ってみることにした。
はじめは自分に大変優しかった母のことだから、きっと極楽に往生しているものと思っていたが見当たらず、徐々に下界に目を下ろし、遂には人間界を通り過ぎ、畜生道さえ越して餓鬼道にまで達してしまう。
そして目建蓮は、餓鬼道で炎口餓鬼(えんくがき)となって飢えに苦しむ母の姿を見つけてしまった。呼吸のたびに口から常に火を吐く炎口餓鬼は、食べ物を得ても口に近づけた途端に灰にしてしまう。
目建蓮の神通力では見ていることしかできず、すぐに救う手立てはなかった。
これに衝撃と受けて悲嘆する目建蓮は、大師釈尊に母を救う智慧を涙ながらに請う。
すると釈尊は、まず目建蓮の母が餓鬼道に堕ちた理由を諭した。
目建蓮の母は確かに彼に優しかった。しかしその裏では、目建蓮可愛さにほかの兄弟を二の次にし、兄弟が食べるべき食事や、得るべき愛情を目建蓮にばかり注いでしまった。
結果、彼女は死して「我が子らに愛を平等に与えなかった」罪で餓鬼道に堕ちたという。
その事実を知ってまた愕然とする目建蓮に、釈尊は救い出す方法を授ける。
雨季の終わる7月15日に、僧侶たちが修行を終えて里へと帰ってくる。彼らに修行の労をねぎらう衣食寝具を用意し、彼らの七代前の先祖までを思って祈るなら、母は餓鬼道から救われるだろう、と示した。
それを聞いた目建蓮は、さっそくありったけの寝食の品々を用意し、修行を終えて帰ってきた僧侶たちを歓待し、親身なって世話をし、彼らの先祖のために祈りを捧げた。
後日、目建蓮が再び神通力で母を探すと、母は餓鬼道から脱して無事に極楽へと往生を遂げていた。
これを知って目建蓮は飛び上がるほど喜び、その場で踊ってしまったともされる。
感動した目建蓮は「自分一人ではどうにもならなかった。師と僧侶たちの力を得て、ようやく母を始めたくさんの亡き人々の霊位を慰められた。そのことに感謝したい」とし、釈尊もこの法事を毎年の年中行事として執り行うことを決め、仏教でこの法事は重要な先祖供養の一環となった。