経歴
明和3年(1766年)、旗本で信包系信当流織田氏4代当主織田信義(おだ・のぶよし)の四男である織田信昆(おだ・のぶあきら)(※)の三男として誕生した。織田信包(おだ・のぶかね)の7代の子孫にあたる。兄に信包系信当流織田氏5代当主織田信彭(おだ・のぶみち)(信昆の次男)がいる。
※・・・「昆」という漢字には「あに」、「ひで」、「やす」などの読み方もあるため、実際には上記の読みではない可能性もある。
その後、榊原忠尭(さかきばら・ただたか)の養子となり、寛政8年(1796年)4月19日に忠尭の隠居により家督を相続、11代将軍徳川家斉に拝謁した。
忠之が継いだ旗本榊原家は、榊原忠勝(さかきばら・ただかつ)の次男榊原忠重(さかきばら・ただしげ)を祖とし、忠重の祖父である榊原忠政は徳川家康が今川家に人質に出されていた際に付き従った小姓の一人とされる。上野国(現・群馬県)邑楽郡・山田郡(現・群馬県桐生市、太田市、みどり市、栃木県足利市)・相模国(現・神奈川県)鎌倉郡上野村(現在の横浜市栄区上郷町)内などで700石を領有する旗本であった。曽祖叔母は江ノ島岩本院(現在の江島神社)に嫁いでいる。
1806年(文化3年)に徒士頭、1807年(文化4年)6月1日に西ノ丸(権大納言徳川家慶)目付、1814年(文化11年)12月8日に小普請奉行と昇進し、同年12月16日従五位下に叙し、主計頭に叙任された。1815年(文化12年)6月17日、勘定奉行・勝手方に異動、同年12月22日に公事方に異動。1817年(文化14年)3月1日に道中奉行を兼帯したのを経て文政2年(1819年)閏4月1日に(第25代)北町奉行に栄転した。
北町奉行としての忠之は迅速かつそつのない裁決を行い、江戸市民から人気があった。北町奉行在任は17年5ヶ月に及び、これは歴代江戸町奉行中でも長期にわたる(江戸北町奉行としては初代・米津田政の20年9ヶ月、23代・小田切直年の19年4ヶ月、19代・曲淵景漸の17年10ヶ月に次ぐ歴代4位の在職期間)。『想古録』では、「前任者が七、八年、時には十年以上掛かっていた採決を二、三日で行ってしまう」ほどのスピード裁判であったと伝えており、長期にわたる訴訟で訴訟費用に苦しんでいた江戸庶民から歓迎された。また、在任中に鼠小僧次郎吉、相馬大作、木鼠吉五郎など、世間を騒がせた規模の大きい裁判も多数担当した。
木鼠吉五郎を尋問した際には、吉五郎が最後まで自白しなかったため、察斗詰を老中に申請して措置を下した。天保7年(1836年)9月20日、長く務めた町奉行から旗本が任じられる最高職である大目付に転任した。さらに、天保8年(1837年)5月16日に留守居に転じたが、同年7月20日に死去した。享年72。
長男に勘定奉行、及び新潟奉行を歴任した榊原忠義がいる。
エピソード
老中水野忠邦から台付(いわゆるいかさま博打の一つ。)の流行を取り締まるよう命じられた時、一旦「畏まりました」と引き下がった後で、隣室で大声で水野老中に聞こえよがしに「富くじ(現在で言うところの宝くじである)を幕府公認の博打として許しながら、町人が行うささやかな台付のみを取り締まれという御触が出せるものか!」と言い、台付規制を撤回させた。また、癒着を求めて商人杉本茂十郎が賄賂を差し出してきた折には、逆に杉本を摘発するなど、剛直で私曲のない人物を窺わせる話が伝わっている。
演じた人物
里見浩太朗 - 八百八町夢日記(1989~1992年、NTV)
山形勲 - 右門捕物帖(1974年版)(1974~1975年、NET(現・テレビ朝日))