概要
1943年1月15日生まれ、東京都出身。旧芸名:悠木千帆。本名・内田啓子(旧姓:中谷)。
元警察官で、趣味で琵琶をやっていた父と、カフェを経営する母の元生まれる。妹やその息子も琵琶奏者である。
千代田女学園時代に演劇部に入ったことがきっかけで芝居に興味を持つが、同時に食いっぱぐれないように薬剤師を目指そうとも考えていた。しかし、卒業を控えた時期にスキーに出かけたところ足を骨折してしまい大学受験を断念する。自宅で悶々と過ごすなか、三大劇団(文学座・俳優座・劇団民藝)が団員を募集すると聞き、試験が一番早かったという理由で文学座を受験する。
1961年に文学座附属演劇研究所に入り、「悠木千帆」としてデビュー。1964年、TBSのテレビドラマ『七人の孫』で脚光を浴びる。1965年に文学座の正会員となるが、翌1966年に文学座を退団しフリーとなる。
1974年、同じTBSのドラマ『寺内貫太郎一家』で、小林亜星演じる貫太郎の母・きん役を、小林より年下であるにもかかわらず演じるなど、年齢以上の老け役を中心に活躍した。
2003年1月に網膜剥離で左目を失明。2013年には全身が癌に侵されている事を公表するなど、21世紀に入って体調を著しく崩したが、病身を押して精力的に活動。死の3ヶ月前に封切りした映画『万引き家族』(是枝裕和監督)はカンヌ国際映画祭の最高賞「パルム・ドール」に輝いた。
2018年9月15日、自宅で家族に看取られながら死去。その約半年後には夫の内田裕也も他界している。
日本アカデミー賞最優秀主演女優賞2回、最優秀助演女優賞1回。ブルーリボン賞助演女優賞1回。キネマ旬報ベスト・テン助演女優賞1回。旭日小綬章・紫綬褒章受章。
親族
1964年に岸田森と結婚するが、1968年に離婚。
1973年に内田裕也と再婚。1年半で別居し、以来生涯別居状態を続けた。内田は不倫が多く、一時は内田から一方的に離婚届を出されたが、それに対して離婚無効訴訟を起こす(結果は樹木の勝訴)などして関係を続けた。訴訟以降は一年に一回連絡を取る程度の仲であったが、樹木が2005年に乳がんとなったことをきっかけに一ヶ月に一回は連絡を取るようになり、毎年末は家族でハワイに滞在するなど夫婦関係が改善されていた。
娘は女優・エッセイストの内田也哉子。娘婿は本木雅弘。モデルの内田雅樂(UTA)、女優の内田伽羅は孫にあたり、雅樂、伽羅の下にさらに弟(一般人)がいる。
エピソード
- 後半生の芸名となった”樹木希林”を名乗るきっかけは、1977年に日本教育テレビ(NETテレビ)が「テレビ朝日」への改称を記念して放送した特別番組のオークションコーナー。この時「売る物がない」との理由で、自身の当時の芸名「悠木千帆」を出品した。その結果東京・世田谷の飲食店店主が2万200円で落札。2004年に、この落札した女性から無償で女優の山田和葉に譲られ、現在山田が2代目悠木千帆として活動している。
- 芸名を売った後は(結婚後の)本名である「内田啓子」として活動しようかとも考えていたが、夫の内田裕也から「『内田』を名乗ると、俺の個性が君の芸にからむようでまずい」と反対され、「樹や木が集まり希(まれ)な林を作る=みんなが集まり何かを生み育てる」という意味を込めて「樹木希林」とした。由来については自分で辞書で字を調べて当てたとされていたが、後年になってある人からもらった手紙に書いてあった言葉から決めたと言及している。
- 1979年1月、TBSのドラマ『ムー一族』の放送終了記念パーティの席上、プロデューサー兼演出だった久世光彦が出演者の一人と不倫関係にあることを明かした。樹木の本意は「久世さんがああした状況の中でなし崩しにショボショボしていくのが耐えられなかった」「2人の気持ちを軽くしてやろうと思った」(参考)ことにあったが、この結果久世とは17年間絶交状態となり、樹木自身も周囲の批判を浴びる事態になった。「そんな話やめろ!」と怒った沢田研二に対しても「ああいう見せかけの優しさが久世さんをダメにした」ときっぱり言い切っている。
- 「概要」にもある通り、20代の頃から老人役を演じる事が多く、その巧さには定評があった。『寺内貫太郎一家』では、何か事があると仏壇の側に掲げた沢田研二のポスターの前で「ジュリーィィィ!!」と叫びながら腰を振るシーンで強烈な印象を残した。『ムー一族』では共演した郷ひろみと2枚のシングル(劇中歌扱い)をリリース、ヒットを飛ばした。
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