概要
流星艦上攻撃機は大日本帝国海軍の艦上攻撃機であり、愛知航空機によって設計・開発された。
急降下爆撃・水平爆撃・雷撃の三種類の攻撃を可能とした多目的任務機であり、名前も爆撃機に付けられるはずの「星」の名が付けられているが(攻撃機は「山」が名前に付けられた)
分類上は攻撃機だった。
外見上の一番の特徴は性能向上のために採用された逆ガル翼だろう。
実際、当時の艦攻、艦爆の中でも優れた性能を持っていたが、登場した時期が終戦間際だった為に艦載機としての本領を発揮できなかった機体でもある。
開発から運用
当時、艦爆と艦攻に求められていた性能が似通って来ていたこともあって両者の性能を融合させるという企画が持ち上がっていた。また、積載能力に限りある空母のことを考えると効率的なことであるため本格的に計画され、昭和16年に海軍から開発命令が愛知航空機に下った。
しかし、海軍の要望スペックは
「1機種で艦攻艦爆を兼ね、水平爆撃・急降下爆撃・雷撃が可能なこと、空戦能力は九九艦爆と同等かそれ以上、頑丈で整備しやすくて量産もしやすいものであること、爆弾・魚雷は多種類のものが装備可能であること、etc...」
と、いつもどおりの無茶ぶりだったが、愛知航空機は試行錯誤しながらも試作機の開発に成功。しかし、欠点が見つかったために設計を見直し試作2号機を開発し、これを元にした機体が1945年2月に流星一一型として制式採用された。機体設計が2号機から変わったことから関係者の間では「流星改」と呼ばれていた。
―――と一般に言われるが、設計主任技師の手記によれば「そこまでの改設計はしていない。若干の軽量化と量産のために図面を書き直したことが誤って伝えられたのではないか。」とあり、また略号も、試作機から量産機まで一貫してB7A1であり、少なくとも用兵側で区別されていた痕跡はない。そして流星改の略号とされたB7A2は発動機を誉二三型に換装した実験機だったことが判明しており、「流星改」が実在したかどうかは非常に疑わしいといえる。
完成した機体は海軍の要望に応えるだけの性能を有し、従来の日本海軍の艦攻が持たなかった防弾装備を備え、高出力エンジンと優れた空力性能、可動フラップの採用によって、艦攻としては抜群の高速性能と軽快な運動性を兼ね備えた機体に仕上がった。
総生産数は約110機
活躍
しかし、流星の登場は終戦間際であり、この頃の日本海軍に空母を積極的に運用する力はすでになく、また新造された空母は潜水艦によって失われたり本土決戦に向け温存されたため、流星が艦上機としての性能を発揮することはできなかった。また、製造工場が地震や空襲で大きな被害を受けたこと、生産性に考慮したとはいえ複雑で繊細な機構は製作に手間がかかることなどから増産は遅れ、そのためこの機体を装備できた部隊も少なかった。
流星を装備した数少ない部隊である第七五二海軍航空隊・攻撃第五飛行隊は、終戦間際に千葉の木更津海軍航空基地から米英機動部隊への攻撃を幾度か行ったとされるが、その戦果はわかっていない。
また敗戦当日、同基地から発進した流星が房総半島沖に接近した空母ヨークタウンに特攻を行い、これが海軍公式記録上「最後の特攻」になった。
終戦間際に見られる、優れた性能を持ちながら登場時期が遅れ、また十分な数をそろえられなかった為に活躍できなかった機体の一つとも言えるだろう。